男がマンションに入っていくところだった。
どういうことだ?
今日、咲が会っていたのは、◯子じゃなくて、やっぱりあの男だったのか?
俺を呼んだのはあの男の指示か?
俺はずっと、本命は俺だと信じていた。
あの男こそ浮気相手だと、ちょっとした遊び相手だと思っていた。
だってあの男は咲に俺という男がいることを知っているはずだ。
あの日、咲は俺に部屋から電話をかけている。
その時、あいつは隣にいたはずだ。
なんだ?
どういうことだ?
たぶん、このとき、俺はちょっと壊れたんだと思う。
書くかどうか少し悩んだんだけど、本当のことだからちゃんと書くよ。
俺は咲の部屋には行かなかった。
家に帰って生まれて初めて、最初で最後の自傷ってやつをしたんだ。
机にあったカッターで左腕の外側をシュパッて。
この日の感情を忘れないために。
この日決めたことを忘れないために。
思ったよりいっぱい血が出てビビった。
初めは全然痛くなくて、(あれ?)なんて思ったけど、後からめちゃめちゃ痛くて後悔した。
キモいよね。
すまんね。
正直、分からないことだらけだった。
分からないというより納得がいかない、って方が正しいかも。
でも色々勝手に妄想するのはやめることにしたんだ。
とにかく最悪の状態なんだと思うことにした。
唯一わかっているのは、“俺が知っていることを2人は気付いていないだろう”ってことだけだった。
どういう理由があるのかさっぱり分からないけど、この時の段階では俺と咲はまだ恋人同士だし、普通にセックスだってできるだろう。
それが仮に、あの男が咲に許可を出ているからだけだとしても全然構わない。
いきなり訳もわからず振られるよりはマシだ。
この関係がいつまで続くのかも分からない。
だったらギリギリまで騙されてやろう。
こっちが遊んでやろう。
その為に俺は咲を吹っ切る必要があった。
決して情に流されるようなことがないように。
心を揺らすことのないように。
完璧な芝居をする為に。
まず俺は、あの男のことが知りたかった。
こっちも何も知らないんじゃ同じ土俵には立てないと思った。
一介のサラリーマンの俺じゃあどうにもならないと思い、躊躇なく興信所に頼んだ。
依頼内容は、婚約者の浮気相手の身元調査。
実はこれ、普通の浮気調査より高かったんだけど、そういうものなの?
とりあえず水曜日の夜にだけ狙いをつけて、4回張り付いてもらうことになった。
でも、バッチリ1日目でヒットした。
やっぱり水曜日ってのは決まっているみたいだった。
とりあえず中間報告ってことで、わずか2週間ほどで報告書が出来た。
中間報告ってことだったけど、最初に依頼した部分は全部埋まっていた。
マジ興信所こえぇって思ったよ。
一番ショックだったのが、あの男は咲と同い年で、まだ一応学生なんて身分だったことだ。
俺も初めは学生だとは思ったけど、こんな非常識なことが実際にできる奴なんだし、少なくとも俺より年上の経験豊富な奴なんだと思い込んでいた。
しかもこいつ、女と同棲してた。
というか、女の家に転がり込んでいる状態だった。
よくこんな状態の奴の名前やら実家の住所まで2週間で調べられたなぁなんて感心した。
興信所は、「同棲女のこととか奴の実家の収入とかも調べますか?」なんて聞いてきたけど全部断り、これがそのまま最終報告書ってことになった。
あと、興信所の人は色々助言をしてくれた。
つうか警告に近かったけど。
まぁ平たく言えば、「この調査報告を犯罪に使うなよ」ってことだった。
守秘義務があるけど、裁判所とか警察なんかから開示依頼があればウチは全面的に協力するからねとか、例え本当に突発的なトラブルになったとしても、こういうことをした以上、なんらかの計画性があったなんて言われても文句言えないよとか、法的な段階を踏まずに金銭の要求をしたら犯罪だよとか、相手の不利益になるような情報を流すのも駄目だよとか、そんな感じ。
よっぽど俺がこういう事をしそうに見えるんだなと感じた。
もしかしたら咲を見たとき、むしろ俺こそがストーカーかなんかじゃないかと思われたのかもしれない。
まぁ実際、“婚約者”ってのは半分嘘みたいなものだし、仕方がないとは思ったけどね。
とにかくこれで俺はあの男を知ることができた。
ある意味、咲よりも詳しいかもしれない。
正直俺は、あの男に少なからず恐怖を感じていたんだ。
基本的に俺はチビのもやし君だからね、喧嘩になったらまずボコボコにされるのは俺の方で間違いない。
けど相手が年下の学生だってわかっただけでも、随分気分が楽になった。
まあ、咲を寝取られている時点でもう完全に負けているんだけど、(勝てるかも?)って思えるようになってた。
さて話は咲の方に戻ります。
あの夜から3日後、俺たちは久しぶりにデートらしいデートに出かけた。
俺が提案したコースだった。
遊園地で遊んで、学生の頃によく行った公園を歩いた。
夜はちゃんとしたホテルをとって、ちょっとお高いディナーを食べた。
2人で沢山話して沢山笑った。
俺は自分でもびっくりするくらい普通に振る舞えた。
完全に吹っ切ることで完璧に楽しむことができた。
悲しいけど、俺は本来、こういう事が出来る人間なんだと知った。
夜は当然セックスをした。
実は不安だったけど、俺はいつもと決定的に違うことをしたんだ。
全然大したことではないんだけど、俺にとっては重要な第一歩だった。
実は、俺は咲とゴムを付けずにしたことがなかった。
必ず使用した。
どうしても無いときは我慢した。
咲が「大丈夫だよ」と言っても、頑なに拒否してきた。
それが男側の最低限のマナーだと信じていたし、そんな自分に少し酔っていたところもある。
でも、あの夜、初めて付けなかったんだ。
あの日のことは本当によく覚えている。
正常位だった。
入れた時、咲は少し驚い顔で、「付けてないよね?」って。
俺は、「いいんだ。駄目か?」と聞いたんだ。
そしたら咲はにっこり微笑んで、「いいよ」って答えた。
そして俺の首に腕を回して体を引き寄せて、「大好き」って言ったんだ。
“萌え死ぬ”ってのはこういう事を言うんじゃないかってくらいクラクラ来た。
言い訳みたいになるけど、俺自身5年以上ぶりくらいの感覚だったはずだ。
それにたぶん1週間以上自己処理をしていなかったこと、何より初めての咲の本当の体温にめちゃくちゃ興奮したんだと思う。
1回目は本当すぐイッちゃったんだ。
10秒ももたなかったと思う。
ヤバイッてなって慌てて抜いたら出ちゃった、みたいな。
2人で目を丸くして、『え、もう?』ってなって爆笑したことをよく覚えている。
その夜は朝方まで何度も何度もした。
これは純粋に疑問なんだけど、ゴムをするとしないでは女性側も感じ方は違うものなのかな?
男の方は全然違うし、その理屈も分かるんだけど・・・。
まぁ、とにかくあの夜の咲はいつもより凄く乱れた。
何度も俺にしがみついて、「大好き」って言った。
腰を押し付けて、全身を震わせてイッた。
俺が求めれば何度でも応えてくれた。
臭い言い方だけど、3年間で一番熱い夜だったと思う。
でも、そんな最中でも左腕の傷跡を意識すれば、あの日の感情をすぐに取り戻すことができた。
胸の奥のずっと深い所、何か黒くてドロドロした部分にあの日の俺がいつもいて、(ふざけるな!)って睨みつけている感じ。
この感覚が湧き出るたびに俺は、『そうだよ。ふざけんなよ、クソ女』って心の中で叫んでいた。
結局、この奇妙な関係はここから5ヶ月弱続く。
次の年の3月の頭、俺は咲と別れることになる。
この頃から12月の中頃まで俺は、週末は全て咲と会っている。
その逆に平日はほとんど会っていない。
これは意識してそうしていた。
会えば必ずセックスをした。
そして俺は要求を少しずつエスカレートさせていった。
エスカレートなんて書くと少し大袈裟だな。
所詮俺のすることなんて普通の恋人同士ならたぶんやってるようなことだと思けど、俺からすれば大冒険だった。
例えば、“大人のおもちゃ”ってのをネットで購入した。
勢い余って4つも買った。
目隠しや軽く縛ってみたりSMっぽいことをして、それを使用した。
外のトイレで口でさせたり、ドライブ中に手でさせたりしたりした。
あと生理中でも強引に抱いた。
この時、生まれて初めて中出しを経験した。
咲は、こういった行為を一応初めは嫌がるんだけど、最終的には必ず同意した。
それは、俺に対する何か罪悪感のようなものがそうさせるのか判らなかったけど、俺にとっては好都合だった。
あと、咲は完全にMの人だった。
普段の咲は凄く勝ち気な性格で、こういった一面があるなんて全く思いもしていなかったから、初めは戸惑った。
けど、そこはあの男のことがちらついて、(あの男にこんなふうにされちゃったんじゃねーの?)と勝手に妄想して、逆に俺のSの部分を刺激した。
こうやって書くとそこそこ楽しんでいるように見えるかもしれない。
けど、咲と会わない日、1人でいたりする時には閉じ込めたはずの感情が思い出なんかと一緒に次々湧き出てきて、頭がおかしくなるんじゃないかってくらい苦しんだりした。
特に水曜日はきつかった。
実際、本当にあの男と会っているかどうかなんて分からないんだけど、確認するような真似は全くしなかった。
夜、どうしても想像してしまうんだ。
咲とあの男のセックスを。
あの男にしがみついて、よがり狂う咲の姿を。
あの男は必ず俺のことを咲に聞くはずだ、そしてその話をネタにして咲を責め立てるはずだ。
もしかしたら俺の名前を呼ばせていたかもしれない。
そうして悦に入って咲を玩具のように弄んでいるはずだ。
咲はその時、どういう感情で俺のことを想うのだろう?
そんな事を想像してオナニーをした。
信じられないかもしれないけど、あの男に責められながら俺を想う咲を想像してするのは、それまで観たどんなAVなんかよりも興奮した。
酷い時はそんな行為を朝まで続けた。
そして必ず、すごい自己嫌悪に陥って死にたくなった。
そんな時は、とにかくがむしゃらに仕事に集中することで気を紛らわせていた。
12月に入り、正月休暇に向けて忙しく仕事を片付けていたところに、とんでもない報告が入った。
本社側のあり得ないようなミスでトラブルが起こり、これの処理が支店側に回ってきたんだ。
正月休暇どころじゃなくなった。
中頃から末まで連続出勤を余儀なくされた。
終電に間に合わなくて会社に寝泊まりする日もあった。
元旦と2日だけ、これまた本社側の都合で休みにはなったけど、3日からは下っぱ独身社員のほとんどは出社させられた。
なんとか見通しがついたのが本来初出になるはずの7日で、この次の日、俺が会社から受けたその年最初の命令は、「休暇を取ってくれ」だった。
ま、要するに労働時間が長すぎるってことで、俺は強制的に2月の終わりから10日間の休暇を取らされることになったんだ。
(どうしよ?)なんて考えてても思いつくのは咲とのことしかなく、クリスマスもろくに一緒に過ごせなかったお詫びにと、俺は旅行を提案した。
南の島で水着姿の咲といちゃつく休暇も悪くないって思ったんだ。
俺が出した条件は南の島ってだけで、あとは行き先もプランも全て咲に任せることにした。
もちろん費用は全額俺持ちだ。
この提案に咲は大喜びで飛びついた。
1週間くらいあーだこーだと悩んでいた割には、結局ハワイに4泊6日っていうベタなものになった。
咲は本当に嬉しそうにはしゃいでいて、この頃は旅行の話しかしていなかった気がする。
2月最初の水曜日の夜中、咲からメールが入ってた。
気が付いたのは朝だったから、その日はちゃんと眠ったんだと思う。
件名なし、本文なし、添付ファイル1つ。
見た瞬間に送ったのはあの男だとわかった。
添付ファイルは画像で、上半身全裸で小さめのおっぱい丸出しの咲が、両手で頬っぺをつねり、よく言う“変顔”で写っていた。
(なんでこんな微妙な写真なんだよ?)って思ったよ。
写真を撮ったのは間違いなくあの男だろうけど、この写メを咲に問いただしたところで、「セルフタイマーを使った」なんて言われれば、いくらでも言い訳ができる気がした。
正直に言えば、この時期、まだ咲と付き合いが続いているなんて完全に想定外だった。
もっと早くあの男からなんらかのアクションがあるものだと思っていた。
だから焦って興信所まで使ったのに。
で、やっとなんかしてきたと思ったらこれだ。
どうせ俺が咲に写メのことを話せば、咲はあの男にその事を話すだろう。
で、それをネタにまた楽しむ、と。
(くっだらねぇ!)って思ったね。
いつまでこんな状態を続けるつもりなんだと。
とりあえずメールで返信はしておいた。
『夜中に欲情っすかw朝からびっくりしたよ』みたいな。
送った後、まだあの男と一緒に寝てるかもしれないと気付き、余計にイライラした。
そして、ふと思ったんだ。
咲は俺と旅行に行く前にもあの男と会うのかなって。
休みは金曜から翌週の日曜までの10日間で、出発は初日の金曜日だった。
休みの間は俺が咲と会わない理由なんてないし、あの男は10日間は咲とは会わないわけだ。
(絶対会うだろうな・・・行ってみようかな)って思った。
実は、この頃にはさすがに俺も、たぶん咲は俺と別れたいわけではないんだろうなとは気付いていた。
咲の態度。
何もしてこないあの男。
そして今回の中途半端な写メ。
どれもがその事を物語っていた。
でも、もし仮にそうだとしてももう手遅れだった。
器が小さいのかも知れないけど、絶対に無かった事になんて出来なかった。
それと、そうまでしてあの男と別れられない理由が知りたかった。
あの男に何があるのか?
俺に何が足りないのか?
納得のいく答えが欲しかった。
そういう意味では俺は、ずっと終わりを待ち望んでいたのかもしれない。
<続く>