でも、仕方ないんだ。
お前の好意は嬉しいよ。
でも、仕方がないんだ。
俺はお前の好意に甘えすぎた。
会話という会話もすぐに尽きて、沈黙が支配していた。
そして春香が言った。
「ねえ、受験は私も都内の大学を受けるから、受かったら来年一緒に住もうよ」
天に昇るほど嬉しかった。
春香の精一杯の言葉に感じた。
少し沈黙して俺は答えた。
「・・・だめだ」
「なんで?」
今にも壊れちまいそうな顔になる。
非情な俺は追い討ちをかける。
「女を連れ込むから」
空気が凍りつくのがわかった。
沈黙が重かった。
俺の真剣な口調から、いつもの冗談とは違うと春香も悟っていた。
このまま冗談で流すこともできるが、俺の真剣な眼差しが春香をしっかり捕らえ逃さなかった。
もちろん女がいたわけじゃなかったし、春香を完全に振り切れる自信もなかった。
半分は自分に言い聞かせてた。
いい踏ん切りじゃないかと。
「・・・そう」
春香は部屋を出ていった。
ショックが見て取れた。
なんでショックを受けるんだよ。
でもいいんだ。
これでよかったんだ。
お前は俺以外の誰かと幸せになるべきなんだ。
お前の好意は感じている。
でも、俺はそれに長く甘えすぎた。
(春香を裏切った)
そんな感覚が俺を襲った。
引越しは俺が自分で車を運転して荷物を運んだ。
初日は両親も同伴して、大家さんに挨拶をしたり、部屋の掃除を手伝ったりと、色々世話を焼きに来たが、途中から俺1人でやると言って帰らせた。
早く1人になりたかった。
まだ本棚も何もない、がらんとした部屋の畳の上に俺は大の字に寝転んだ。
天井を見ながら昨夜のことを考えていた。
春香の表情が頭から離れなかった。
今日、春香は来なかった。
もちろん受験生の夏は勉強に忙しいだろうが、それを差し引いても気まずかったのだろう。
その日は色々疲れたのですぐに布団を敷いて寝た。
次の日もやっぱり春香のことを考えていた。
家にまだ荷物が残ってるので、それから何日かは実家とこっちの家との往復が続いた。
実家に帰るたびに春香と会うのを楽しみにしている自分に気づく。
引っ越して初めて実家に帰ったとき、玄関先で春香にばったり会った。
「よう」
思わず笑顔が出てしまった。
春香はそれをどうとったかわからない。
こないだの夜の俺の突き放した態度がまだ頭に残っているのだろう。
俺も辻褄を合わせるかのように、陽気なのはそこまでだった。
その日、話したのはそれっきりだった。
俺が引っ越して5日が過ぎた。
引越しってのは引越した後も色々と手続きがあって面倒くさい。
ガス、電気、水道、電話代の口座振り替えの依頼など、うざったい手続きやら何やら色々な仕事でこの5日間が過ぎ、やっと一息つける。
思えば、多忙のおかげで少しは春香のことを紛らわせていられたみたいだった。
でも、それでも今、また思い出している自分がいる。
こんなにも女々しい野郎だったのかと情けなさを通り越して驚く。
もしかして今まで女を冷たくあしらってきたことの祟りかもしれないとすら考えた。
そんな気持ちでいたときだ。
8月24日の夕方、突然春香から電話があった。
「お兄ちゃん?今、◯◯駅(最寄りの駅)にいるの。今から行っていい?」
驚いた。
聞けば、ある予備校の模試の試験会場が近くだったらしく、その帰りがけに俺の部屋を見ておこうと突然思い立って寄ったらしい。
すぐに駅へ迎えに行った。
あとから考えれば、春香は突然思い立ったのではなく、“直前まで俺の家に来るのを迷っていた”のだ。
覚悟を決めるための時間が必要だったのだ。
駅は結構近い。
間もなく駅に着くと、春香が笑顔で手を振ってきた。
小走りで駆け寄ってくる。
(可愛い)
久しぶりに見て、本気でそう思った。
話しながら俺の家まで行き、部屋に入るなり・・・。
「わー、散らかってるぅ」
「仕方ねえだろ。荷物も整理してねえし、俺も忙しかったんだから」
「でもさ、洗濯物くらい片付けなよ。もう」
そう言っててきぱきと畳んで片付けてくれた。
その姿がやけに甲斐甲斐しくて嬉しくなった。
今まで自分から春香を避けていたくせに、久しぶりに会えたらとても喜んでいる自分がいた。
荷物を俺の家に置いて、2人で晩飯を食べに行った。
「何か作るよ」と張り切っていた春香だが、俺のうちにまだ鍋などの基本料理セットが揃ってないため、それもお預けとなった。
飯を食って家に帰る頃には7時を回っていた。
俺たちはすっかり会話を楽しんでいた。
春香は今日のテストのことから勉強のこと、成績のこと、家のこと、色々話してくれた。
俺も一人暮らしで大変だったこととか、気楽でよかったこととか、次々に言葉が溢れてきた。
俺の部屋で飲むことになり、近くのコンビニで酒を買って帰る。
「引越しの前祝いはやったけど、引越し後のお祝いはやってないもんね」
「そうだな。よし、お前の模試のお疲れ様の意味も込めて一緒に祝おう」
「引越し前祝い」という単語が出たとき、俺は一瞬ドキリとしたが、さらりと言ってのけた春香を見ると、もう気にしてないようで安心した。
そんな春香を見て、心のどっかがチクリとしたが、これでよかったんだと思った。
そうだよ、俺たちは兄妹なんだ。
今楽しく話してるのも、久しぶりに会った兄妹だからなんだ。
あんまり酒が強くない春香が今日は結構いいペースで飲む。
以前どっかで見たことあるような光景。
「もう、そのくらいにしとけって」
気づくべきだった。
いつしか会話もなくなって、心地よい沈黙が訪れる。
「・・・もう女の人は入れたの?」
冷やかすような勘ぐりじゃない、どことなく表情が深刻味を帯びている。
「・・・ああ」
「嘘。もう?」
「母さん」
春香の顔が目まぐるしく変わるのが面白かった。
「はは、あれは数に入らねえか」
「もう!・・・あたしが・・・初めてだよね、“女の子”では」
嬉しそうに屈託なく笑っていた。
俺は胸が締め付けられた。
「ああ、そうだな」
突き放そうと思っていた決心が揺らぐ。
ダメだと制止するほど求めてしまいそうになる。
再び沈黙。
ビールを飲み干して缶を潰した。
沈黙の中で、その音がやけに響いた。
「そろそろ帰るね」
不意に春香が切り出した。
「え?あ、ああ・・・って平気か?お前、まだ酔ってないか?」
少し残念に思いながらも玄関まで送るために俺が立とうとしたとき・・・。
「・・・もう、来ないね」
「え?」
ドキリとした。
聞き返す言葉も承諾する言葉も、何も後に続かなかった。
「彼女を呼ぶんでしょ?邪魔したくないし」
(・・・)
『馬鹿、気にするなよ』
その言葉を俺は必死に飲み込む。
彼女にそう思わせたのは俺なんだ。
恐くなった。
何かが壊れる。
何かを失う。
取り返しがつかなくなる。
恐くて恐くて、俺は動けなかった。
何も言えなかった。
(涙?)
今、春香の足元に落ちたのは、何だったんだ?
「ごめんね・・・取られるなんて思うの、変だよね・・・思い上がりだね」
(な、何言ってんだよ?どうして泣いてるんだよ?)
俺は訳が分からなかった。
でも泣いている春香をほっとけるわけがない。
それだけだった。
俺は抱き寄せた。
力いっぱい抱き締めた。
「・・・ごめんね・・・お兄ちゃんのこと・・・」
「ごめんな」
消え入りそうな声を俺の声でかき消す。
「俺が言う。ごめんな。こんな思いさせちまって。ごめんな」
腕の中で震えている春香がいる。
こんなにも小さかったのか。
こんなにも華奢だったのか。
そんな子をここまで追いつめたのか。
「俺、春香が好きだ」
春香の細い腕が、俺の背中にまわって力いっぱい服を掴むのがわかった。
<続く>