親と一緒に実家に帰って来たのは夕方でした。
明日の午後には東京に戻って、また月曜の出勤に備えなければなりません。
夕食を済ませて自分の部屋に入りました。
最近では、年に数回のペースで実家に戻って来ていますが・・・。
なんだか・・・戻って来るたびに・・・。
私は普段、東京で一人暮らしをしています。
自分で言うのもなんですが、日々まじめに過ごしているつもりです。
でも・・・そんな私にも、人には言えない秘密があります。
いつも自分を抑えて生活している反動なのでしょうか・・・。
心の奥底に、無性に刺激を求めるもう一人の自分が潜んでいるのです。
(誰にも知られずにドキドキしたい)
(あの興奮を味わいたい)
ここ1年ばかり、帰省するたびにそんな気持ちになってしまう私がいます。
この日も例外ではありませんでした。
山奥の渓流での恥ずかしい体験・・・。
野天風呂での思い出・・・。
記憶を蘇らせながら、気持ちがうずうずしてきます。
ひとたびこうなると、もう我慢できませんでした。
行きたくて行きたくて仕方なくなります。
こうして帰省してきたときくらいにしか訪ねることのできない、あの特別な場所・・・。
でも今回は時間がありません。
明日の午前中のうちには帰りの新幹線に乗ってしまうつもりでした。
(したい・・・)
東京に戻れば、また変わり映えのしない日々が待っているだけです。
衝動に駆られました。
(また、ああいうことをしたい)
昔、何度か行った市営プール。
・・・でも、この時間からでは遅すぎます。
(そうだ)
ふと頭をよぎったことがありました。
(いつかの銭湯・・・。あそこなら)
スマホで調べてみます。
1月に訪ねた隣町の銭湯・・・。
(そうだった)
偶然に居合わせた小学生の男の子に・・・。
(確か、S太くんと言ったっけ)
ドキドキしながら裸を見られたあの銭湯・・・。
土曜ですから、きっと今日だって営業しているはずです。
もちろん、わかっていました。
あんな都合のいいシチュエーション・・・。
そうたびたび巡り合えるものとは思っていません。
頭の中で計算していました。
(銭湯と言えば・・・)
遥か昔の記憶が蘇ります。
(閉店後の従業員さん)
まだ地方都市で勤めていた頃の羞恥体験が、頭をよぎっていました。
時間を見計らって家を出ました。
営業時間が終わった頃にタイミングを合わせます。
夜道をゆっくり車を走らせていました。
隣町ですから、そう遠くはありません。
もう雪は降り止んでいましたが、景色は一面真っ白でした。
前回来たときも雪景色だったことを思い出します。
しばらく運転していると、その銭湯が見えてきました。
駐車場に車を入れます。
トートバッグを抱えて車から降りました。
建物の入口まで行くと、もう暖簾は出ていません。
・・・が、中に明かりは点いています。
まだ鍵は掛かっていませんでした。
恐る恐る入口の戸を開けます。
質素なロビーは無人でした。
正面のフロントにも、もう人の姿はありません。
下駄箱に靴を入れました。
ここまではイメージ通りです。
下手にコソコソした態度だと、かえって不自然に思われかねない・・・。
そのまま堂々とロビーに上がってしまいます。
奥の『女湯』側の、戸を開けてみました。
戸の隙間から中を覗きます。
照明は点いていますが、無人でした。
(どうしよう・・・)
ちょっと迷って、今度は『男湯』側の戸をそっと開けてみます。
(いる!)
中の脱衣所に掃除中(?)のおじさんがいるのが見えました。
一気に感情が高ぶります。
(ドキドキ・・・)
まるでスイッチでも入ったかのように・・・。
(ど・・・どうしよう)
気持ちが舞い上がるのを感じました。
(ドキドキ・・・ドキドキ・・・)
見ているだけで、なかなか行動に移せません。
目の前の実際の光景に、まだ覚悟が追いついてきていない感覚です。
そこから一歩を踏み出すのには、かなりの勇気が必要でした。
(どうするの?)
もうあそこには、現実に男性がいるのです。
決断を迫られていました。
いまなら引き返すこともできます。
でも・・・悶々とするこの気持ち・・・。
(やろう)
自分の演技力に賭けようと思いました。
(だめなら、だめでしょうがない)
無理だと思えば、その時点で諦めればいいだけのことです。
(ドキドキ・・・)
遠慮がちな口調で・・・。
「あ、あの・・・すみません」
ついに、そのおじさんに声を掛けていました。
私に気づいたその男性が、『おやっ』という顔でこっちを見ました。
(ああ、この人)
見覚えがあります。
お正月に来たときに、フロントにいたおじさんに間違いありませんでした。
あのときは、ずいぶん不愛想な印象でしたが・・・。
「はい、はい」
『どうしました?』という顔で近づいて来てくれます。
「あの・・・もう終わりですか?」
恐縮して聞いてみせる私に・・・。
「一応◯時までなんですよ」
もう営業時間が終わったことを教えてくれます。
客商売ですから当然といえば当然のことですが・・・。
このおじさん、愛想はちっとも悪くなんかありません。
「そうですか・・・もう終わり・・・」
がっかりした顔をして見せると・・・。
「まあ、でも・・・」
おじさんは、ちょっと考えるような表情を浮かべてくれました。
(あ・・・チャンス)
すぐに気づきました。
(見られてる)
瞬きなく私をじろじろ見つめるおじさんの目・・・。
私は、男の人のこの“目”の意味を知っています。
それを察した瞬間から心の中で密かに手応えを感じていました。
(大丈夫・・・。きっと引き留められるはず・・・)
あえて帰りかけるふりをしようとする私に・・・。
「せっかく来てくださったんだから、まあ、いいですよ」
(やっぱり来たっ!)
「良かったら入っていってください」
『えっ?』と驚いた顔をして見せて・・・。
「いいんですか?」
半信半疑の面持ちを向けて見せました。
(よしっ!よしっ)
『本当は迷惑なんじゃ・・・』
表面上そんな戸惑い顔を作って、おじさんの表情を確かめるふりをします。
「はいはい、どうぞ」
『・・・本当にいいのかな?』
そんな遠慮がちな仕草で、ちょっとおどおどするふりをしつつも・・・。
「ありがとうございます」
嬉しそうにお礼を言いました。
日頃鍛えた業務スマイルでニコニコっとして見せます。
私ももう、そんなに若いわけじゃありませんが・・・。
この田舎のおじさんから見れば、まだまだ今どきの若い女の子です。
(・・・この人)
この目の動き・・・。
(・・・絶対そう)
私は、しっかり見抜いていました。
このおじさんは女の子に弱い・・・というか、完全に甘いのです。
私ははにかみながら・・・。
「じゃあ・・・すみません」
そう言ってにっこり微笑んで見せると・・・。
「いえいえ、いいんですよ」
ますます愛想のいい顔になっていました。
(きっと上手くいく)
演技を続けました。
「あ・・・じゃ、お金」
私がトートから財布を出そうとすると・・・。
「あまりお見かけしないけど・・・この辺りの方?」
しゃべりながらフロントの方へと促されます。
「いえ、東京からちょっと用事で」
適当に言葉を濁しながら千円札を渡しました。
「どうりで見ない顔だと思った。いっつも、ばあさんしか来ないもん」
返答に困ったように首をすくめて見せると・・・。
「はい、おつり」
楽しそうに小銭を返してくれます。
こうしてしゃべってみると何も特別なことはありません。
そう・・・よくいるタイプの中年おじさんでした。
若い女の子を相手にするのが嬉しくてしょうがないという感じです。
「途中で片付けに入らせてもらうかもしれませんけど、ごゆっくりどうぞ」
さりげなく付け加えられたその一言に・・・。
(来たっ)
心の中で電気が走っていました。
自分でも怖いくらいに思い通りな展開です。
私は無垢な女の子になりきっていました。
最後まで遠慮がちな感じで・・・。
「それじゃあ・・・すみません。ありがとうございます」
精一杯のはにかみ顔を作って見せます。
背中におじさんの視線を感じながら女湯側の戸を開けます。
中に入って静かに戸を閉めました。
(ドキドキ・・・)
胸の鼓動が収まりません。
(やった)
ここまでは完璧でした。
自分でも信じられないくらいに狙い通りの展開です。
とんとん拍子すぎて、かえって現実感がないくらいでした。
(あのおじさん、途中で入ってくるかもしれない・・・)
さっきの台詞は、たぶん布石です。
間違いなく来るはずだという確信がありました。
(ドキドキ・・・)
今日に限っては運頼みなんかじゃありません。
自分の力で掴み取ったチャンスです。
そう思うだけで、異様なほどの高揚感がありました。
<続く>