大学時代の友人にもロリコンがいて、彼は女子小学生が好きでした。
彼は、「女の子は幼ければ幼いほどいい」と言い放ち、幼稚園児にさえ性的な魅力を感じると言いました。
彼が実際に小学生に手を出したかは知りませんが、彼的には“陰部に毛が生えていること”がダメなのだそうで、性に対して全く無知で、無毛の陰裂に与えられる快感にどうしていいかわからず、その快感に反応する自分を恥ずかしいとは思わずに無邪気にヨガる姿に興奮するのだそうです。
一方で私は、性に無知な小学生には興味がありません。
私は思春期を迎え始めた頃の少女が好きなのです。
全くのツルペタの体ではなく、第二次性徴期に差し掛かり女性らしい体になりつつある少女に魅力を感じるのです。
膨らみ始めた乳房や陰毛の生えた股間を男性に見られることを恥じらい、ましてやあそこに触れられて得られる快感に反応することなど、はしたないと認識している清純さがいいのです。
そしてセーラー服・・・。
これは清らかな乙女の象徴で、とても心を揺さぶるものがあります。
従って私が好きなのは、“セーラー服を着た女子中学生”と言えるでしょう。
さて、セーラー服は女子高生も着ますが、中学生と高校生では何が違うのでしょう。
似たようなセーラー服を着ていても、女子中学生には清純な未完成の恥じらいを感じ、女子高生には清楚な中にも完成された性を感じてしまいます。
清純と清楚、似てて非なるものを女子中学生と女子高生に私は感じるのです。
私が女子中学生に魅力を感じるのは、女子小学生は純真無垢過ぎて、逆に女子高生はほぼ女性として完成してしまっているからなのかもしれません。
私は、セーラー服の清純な美少女が不安がりながらも性の扉を開けて、膨らみかけの乳房を触れられただけで頬を染める恥じらいの瞬間が好きなんです。
セーラー服は脱がさずに捲り上げて、ブラは外さずにずらして乳首を露出させます。
後ろから抱きつくようにしてスカートを落し、片手で乳首を転がすようにしながら、パンツの布の上から陰裂をなぞります。
次第に感じてきますが、乳房と陰裂という女の子にとって恥ずかしいパーツを弄られて、恥ずかしいのに気持ちいいというジレンマに戸惑う様子がたまらなくソソるのです。
やがて愛液でパンツを湿らせ、そのパンツを脱がされる頃には快感で膝がガクガクして、思わず声を出しそうになりますが、そこを必死で耐えている姿がいじらしいのです。
パンツが下げられて丸出しになった陰裂を指で開かれて、今度は直にヌルヌルした膣口と陰核を撫でられると、さすがにその快感にはとても堪え切れずに、「ア・・・アン・・・」と声を漏らしてしまい、真っ赤に顔を紅潮させるのです。
初めて見る、勃起して脈打つ陰茎に驚きながらも、それが今後、自分の恥ずかしい穴を貫くことは知っている・・・。
そうした性の知識を備えているところが、セーラー服少女とランドセル少女の違いなのです。
上半身は清純の象徴であるセーラー服のまま仰向けにされて、脚を開かれて女性器を丸出しに広げられる羞恥・・・。
そこにあてがわれたグロテスクな陰茎・・・。
やがて激痛と共に少女は女になるのです。
この素晴らしい儀式は、何度やっても感動的なのです。
そんな清純なセーラー服女子中学生も、陰核責めの前戯・・・特に男の舌に陰核を転がされるクンニリングスには、息も絶え絶えの喘ぎを示すようになります。
その喘ぎは堪えようが無く、自然に出るもので、そんな自分の様子を客観視することで、はしたない自分にさらに快感に拍車をかけるようになるのです。
陰茎で膣内を掻き回されるよりも、まだまだクンニリングスの快感の方がずっと上の女子中学生も、回数を重ねるうち、膣の上側にある快感のセンサーを亀頭で撫でられ、カリで引っ掻かれると、いつしか快楽を求めて腰が動くようになり、やがて絶頂を知ることになるのです。
処女を捧げた私に会うためにやってくるセーラー服に三つ編の女子中学生は、紺色に白い線の入った襟元と三つ編みが清楚さを際立たせています。
しかし1時間後には下だけ裸になって私に馬乗りになり、腰をクイクイさせて三つ編みを揺らし、セーラー服の襟をフワフワさせながら可愛い顔を淫らに歪めて、陰茎の抽送の快楽に酔い痴れるのです。
女性器の周辺に撒き散らされた精液を指に掬い取り、不思議そうな顔で眺めたり、匂いを嗅いだりしているその表情は、先程とは打って変わって清純な顔なのです。
身支度を整えて私の車の後部座席に乗る14歳のセーラー服美少女は、どこからどう見ても穢れを知らない処女にしか見えないのです。
ところで、小学生好きは絶対にロリコンだと思いますが、中学生に魅力を感じる私も、やはりロリコンなのでしょうか?