俺がまあそこそこの熱意を持って柔の道を歩んでいた頃の話。

その日は地域交流もかねた近隣校柔道部の練習試合で、夏の総体連(本戦)が間近に迫る7月のクソ暑い空気の中、百数人分の男臭が充満する町内道場で俺はヒィヒィ言わされていた。
変な意味ではない。
PCMAX
凄まじい練習メニューを強いられた上での各校のクラブ顧問達との試合形式。
それはもう練習と言うよりイジメに近い。

「イィーッポン♪」

こんな軽い調子でバシバシと畳みに叩きつけられ続けて早十数回目。

「・・・ちょ・・・先生・・・も、マジ・・・勘弁して下さい」

「そやな。ワシも疲れてきたし、5分ちょい休憩な」

(このクソジジイ、汗一つかいてないやろが)

しかし、やっと訪れたクーリングタイムにホッとしていては本末転倒なので、俺は水道水を貪るべく水飲み場へと向おうとした。
そこで・・・。

「タケ先輩、ファイトー!」

・・・はあ、またかと。
そのハイトーンな声に俺はウンザリした。
その場で方向転換。
12時方向の水飲み場から6時方向の道場内へ。
まあ引き返しただけなのだが。
んで、進みにくい事この上ない男達の密林を平謝りしつつなんとか押し分けて進み、その最奥、3年生の練習場まで辿り着いた。
そこに例によって例のごとく・・・。

「お前、また来てたんか」

「ファイトー・・・って、タツやん。元気?」

姉がいた。

「見て分からんか」

「ボロボロやなー」

俺には一つ違いの姉がいる。
目の前のちっさいのがそうだ。
小学校入学の時点で、すでに身長差は逆転していたような気がする。
高校時代の俺は170センチちょいの平凡な体格だったから、柔道部の中では概ね見下ろされる立場だった。
そんな俺の、鳩尾の下くらいにやっと頭が来る低身長。
その当時はショートにしていた黒髪。
夏の学生服。
手には何やらスポドリの冷却ボトルとタオルが握られている。

「毎回毎回ご苦労さん。じゃ、ありがたくいただき」

「アカン!これはタケ先輩のやから!」

こちらの伸ばした手が触れる前に姉はその燃焼系なアミノドリンクを抱え込んでしまった。

「・・・冗談やっての」

そのあまりに過敏な反応に俺は少々の呆れを覚えつつ言う。

「で、先輩の活躍を見やんでええんか?」

「あ」

姉が視線を戻すと同時に場内が沸き返った。
見ると一つの試合が終わったようだった。
3年生の練習メニューは俺たち1年のガムシャラな体力強化メニューでなく、先に控える総体連へ向けての実践的な試合形式オンリーである。
そして、今行なわれているメニューは『勝ち抜き』。
文字通り、勝った者はそのまま残り、休憩なしで次の相手と戦い続けるという、ある意味強者のための特訓と言える内容だった。
試合場を囲む赤畳の内にいる人物は3人。
高々と手を掲げ、一本の形を作っている審判員。
仰向けで倒れている、なんかドでかい男。
そして目を閉じ息を整えている、我らが主将、竹先輩。
正直、見惚れた。

「おいキサン(貴様)!はよ立って礼して出ていかんかい!」

いかにも柔道部顧問なおっさんが声を張り上げると、それまで悔しげに天井を睨んでいた男がふてぶてしい態度で立ち上がり、審判の「互いに礼!」の声も無視して去っていってしまった。

「なんあれー、むっちゃ感じ悪ぅ」

唇を尖らせて毒づく姉。
現代っ子の幼稚な思考力だ。

「柔道は礼に始まり礼に終わる。現実はこんなもんやけどな」

したり顔で説明する俺。
竹先輩はというと、対戦相手がいなくなったのにも関わらず、教科書通りの完璧な礼の姿勢をとっている。
誠実なその姿が、ひたすらカッコよすぎた。

「あー・・・、なぜにあんな御人が、こんなチビと付き合ってんのやろ?」

身長的にも人格的にも、あまりに釣合っていない2人の交際を知ったとき、まあそれなりに衝撃を受けたものだ。

「怒るでタッちゃん。ちゅうか邪魔!もうどっか行き」

「言われんでも、これからまだまだ地獄行きやさかい」

そう言って俺は重大なことを思い出した。
現在は休憩期間中。
しかし無期限ではない。
確か5分。

「・・・やばい。5分越えどころか、すでに10分に到達してるやないか?」

「アホタツ」

こんな下らないやりとりをする関係。
世間的には良好に見えただろう。
そして俺自身、いい姉弟だと(恥ずかしながら)思っていた。

「ええかーお前らぁ!残り2週間、これの意味が分かるか・・・ハイ、竜やん!」

「は?え、俺っすか?」

総体連まで2週間に迫ったある日、練習終了後のミーティング中、唐突に顧問の松本(愛称は『ひげ松』、蔑称は『ハゲ松』)がこちらに白羽の矢を付き立てた。

「えー・・・」

1年から3年までの部員一同が、生暖かい目で俺を見守っている。
今にも吹き出しそうな奴(主に同学年)もいる。

(クソ野郎共めが)

苦々しい思いを噛み潰しながら、なるべく妥当な返答を試みた。

「・・・必死こいて練習すべし、とかっすか」

「おう!練習は必死こけ!せやけどな、絶対に『こいたらあかん』ことがあんねんな~」

「ブッ」とか「ひゃひゃ」とか、下卑た笑いが部員達に感染していく。
・・・ああ、それが言いたかっただけかい、糞オヤジ。

「ええかぁ!今日から2週間、絶対センズリこくなよーー!!」

その瞬間、俺を除く部員全てが心を一つにして大爆笑した。
この記憶は今でもトラウマである。
つーか女子マネもいるんすけど・・・。
うわー、むっちゃ白い目で見てるわぁ・・・。

「ハイ、解散!」

「したーーー!」

俺だけが礼をしなかった。
汗もいい加減引いてきたので、俺はとっとと着替えて帰宅しようと部室に入った。
部室には、同じ1年の久保田と他数名。
そして竹先輩がいる。

「お疲れさーん」
「災難やったねー」
「人柱乙」

久保田と他の連中が物凄い嬉しそうな顔で近づいてきやがった。

「あーもう、お前らマジうざいって」
「竜やんってあの手のおふざけ嫌いやもんな」

「根本的にチェリーなんスよ」
「ってか、センズリの意味すら知らんのとちゃう?」

「お前ら・・・」

凄んでみてもまったく動じない馬鹿共はもう放っておこうと決め、そそくさと道着の下を脱ごうとしたとき・・・。

「けどな、先生の言う通りやで」

それまでの沈黙を破り、黙々とジャージのカタログに目を通していた竹先輩が、目線はそのままにポツリと呟いた。

「精力は溜めとくべきや。ここぞってときに腑抜けてたら思うように体動かへん」

逆にこちらが沈黙してしまうほど真面目な口調で先輩は続ける。

「それに、なんか一つでも禁止しとけば、自ず練習にも身が入るようになるしな」

「・・・お、押忍」

揃って両腕を交差させる俺たちだった。

道場を出ると、茜色と群青の入り混じった夕空が広がっていた。
続けて久保田も飛び出してくる。

「おっしゃ、今日から手淫封印すっぞーっ!」

「声がデカい、黙れ」

つーか女子バスケ部の方々がちょうど目の前を通ってるんすけど・・・。

「お前はほんまにアホやな」
「あ?別に気にせんし」

「俺が迷惑するんや」
「でぇじょうぶよ、竜やん。どうせ今の女共も来たるべき総体に向けてオナ禁を強いられてるんやって。察しちゃれや」

「お前はデフォルトが発情犬か!」

その言葉に、にやけ面全開で久保田が言う。

「カノジョがそうさせるんや。一昨日かてなー」

「わーったからもう黙れ。頼むから」

「エロスが苦手な君のことやから、オナ禁もさぞかし楽なんやろな。羨まし!」

いや、性欲処理くらいは人並みにやってるけど。
とは当然口に出さない。
俺のキャラが崩壊する。

「あ、そうやん!竜やん、実はオナ禁無理なんとちゃうか?」

わざとらしい口調で久保田が言った。

「・・・なんで?」

ある程度予測はついたが、一応聞いておく。

「なんでってそりゃあ・・・あのちっちゃ可愛い姉さんが」

「死ね」

割と本気で腹を殴る。
ゲホッと咽る久保田を置いて俺は駐輪場へと歩き出した。
その途中、あの馬鹿馬鹿しい顧問の命令と、説得力に満ちた竹先輩の助言を反芻し、独りごちる。

「総体まで、2週間・・・」

2週間の自慰禁止。

「結構キツくないすか・・・?」

俺はため息をついた。

予想通り、それはまさしく試練だった。
1日目はまあOK。
2日目、凶暴な衝動が半身に集中し始める。
3日目、朝立ちがいつになく激しい気がする。
4日目、授業中にも関わらず、息子直立(これにはほんと参った)。

そして5日目。

「俺?とっくにヌいてもらったけど。彼女に」

「全兵士に告ぐ。久保田を殺れ」

「イェッサー」

私刑。

「はあっ!?『手淫すんな』っつっただけやろ?なんで彼女のフェラ・・・」

しかし久保田に限らず、すでに自らの手で処理してしまった裏切り者も数人いるようだった。
俺はなんとか、この衝動を押さえつけることに成功している。
辛うじて。

(だいたい姉とか関係なく、この世には誘惑が多すぎるんや。いやむしろ、あいつは絶対にそういう対象として見れん)

まあ、そんなこんなで練習開始。

(・・・む?確かに力が湧き上がってくる・・・か?)

底力とでも言うような。
通常ならへばっているはずの立ち技連続15本の後もスタミナはギンギンだ。
変な意味でなく。
そんな俺のもとへ・・・。

「調子は?」

主将の竹先輩が近づいてきた。

「・・・正直キツイっす」

「まあ、そりゃあな。偉そうに語っといてあれやけど、俺もしんどい」

先輩も1人の男、この衝動に耐えるのは大変だろう。

「ユウが、な」

「え?」

いきなり姉の名前が出てきたことに少なからず動揺する。
数秒の間を置いて、先輩の言葉の意味に気づいた。

「あ、あー・・・。はいはい、そういうことっすか」

「お前にこういうこと言うんもなんやけどな・・・」

「いや、いっすよ。ええもうあのチビが迷惑かけてるみたいで」

「まあ普段通りに接してきてくれてるだけなんやけど、それが今の状況やと、な」

「確かに、そりゃあしんどいっすわ」

「うん。しんどい」

初めて見る先輩の苦笑。
まあそりゃあ、付き合ってたら毎日がエロイベントの宝庫なんだろうし。

久保田は我慢せず、彼女に抜いてもらった。
先輩は必死に抗っている。
空気の読めない姉の誘惑に。

(あのアホ・・・チビのくせに)

憤りと同時に、あの低身長にもいっぱしの女らしさがあったのかと小さな衝撃を受ける俺。

「そんで昨日、ユウにな、ちっと厳しく言い過ぎたんよ。そしたら今日、あいつ学校に来てへんから・・・」

「マジすか」

朝練関係で俺の朝は早い。
飯食って家出る頃は、まだ姉はベッドの中だ。
なので、あいつが休んだりしても気付かない。

「そういうわけで、タツ。悪いんやけど・・・」

「不出来な姉でホントすんません」

本心から謝罪を述べた。

帰宅。
午後10時、とりあえずシャワー浴びる・・・前に姉の部屋へと直行した。
ドアには小学校の図工で作ったと思われる、『寝てます。起こさないでね』と書かれた木製のプレートがかかっている。

(寝てます。だからどうした)

俺は躊躇なく開け放った。
電気は点いていない。
本当に寝ているのだろうか。
だが関係ない。
やはり躊躇なく俺は室内灯のスイッチを押す。
白く2、3回閃いた後、ライトが完全に室内を照らし出した。
そこにあったもの。

(げ・・・)

その光景に俺は一瞬愕然とした。
空き缶。
ジュースのそれではない。
無数のアルコール飲料の空き缶。
それが大量にカーペット張りの床にほり捨てられている。
数にして、6、7、8本・・・。

「ってお前!何しょんねん!」

その投棄された空き缶たちの中央に姉が居座っていた。
小さい手には、やはりチューハイの缶。
それを口元に運ぼうとした体勢で固まっている。
瞳はこちらを向いていた。
抑揚のない沈んだ声が部屋に響く。

「タツ・・・なんね、ノックもせんと。ビックリするやん」

「・・・お前な、ちょっとええか?」

ズカズカと姉の部屋に入っていく。
空き缶が足場を狭めているが気にしない。
踏み潰しながら進む。
そして姉の目の前まで移動した後、その場にしゃがみ込み、目線を同じ高さにした。

「な、なんよぉ?」

「・・・」

目を合わせる。
姉の目が逃げる。
その瞬間。

「アホ」

「いたっ」

デコピンしてやった。

「ほんまによー、その程度のことで休むなや」

「だって・・・」

午後10時10分、説教開始。

「ええか、ただでさえ竹先輩は部の長なんや。試合前はどことなくピリピリしよる部全体を、自分もピリピリしよるにも関わらずまとめてるような人や。むっちゃ大変やと思わんか?」

「・・・思うよ、そりゃあ。でも・・・」

「でもも糞もあらへん。つまりやな、あの先輩ですらイライラはあるってことよ」

「せやかて、あんな言い方はないと思う!」

「どんな言い方?」

「『もう、やめてくれ・・・』て、もうむっちゃ疲れた顔して言いよるんよ!心底迷惑~!って感じで」

「・・・」

俺はその「もう、やめてくれ・・・」に込められた、凄まじい徒労を感じ取った。
自然と腕は押忍の形を作っている。

「・・・なんでやの?あたしはただ先輩の彼女として」

「・・・おい?」

「彼女として、その・・・あれ」

「?」

「フェラしてあげようと思っただけやのに」

「!!!」

<続く>