◯◯県の山奥に、あるひなびた温泉地があります。
あまり有名ではありませんから・・・仮に名前を出したところで、おそらくほとんどの人は知らないことでしょう。
もっとも、私もここで具体的な地名を出すつもりはありません。

私の実家体と、そこは隣県にあたりました。
隣の県とは言っても、決して近いというわけではありません。
それでも田舎に帰省をするたびに何時間も車を飛ばして・・・これまで、いったい何度訪ねたことか。
私にとっては色々な意味で『特別な場所』でした。
その温泉地のはずれには、ひっそりとした野天風呂があるからです。

(あそこに行きたいなあ)

また、そういう気持ちが募ってきていました。
根雪が路面に凍りつくような季節になってしまって体と、その山道を自分で運転していくだけの自信はありません。

(行こう)

結構その気になっていました。
露天のお風呂に入って、あのときのように、さりげなく誰か男の人に私を覗かせてやるのです。

裸を見られてしまっているというのに・・・。
そのことに何も気づいていない、可哀想すぎる女・・・。

そんな『不憫なヒロイン』を演じることの快感を私は思い出していました。

(よし、行っちゃおう。あの興奮をまた味わうために)

行けそうな日を考えて、手帳とにらめっこします。
そして、一度は実家に帰省の連絡を入れようとした私でしたが・・・。
寸前になって、やっぱり思い留まりました。

(別に実家に帰らなくても)

ふと、何度も通ったあの温泉地の光景が脳裏に浮かんでいたのです。

(道沿いに数軒並んでいた・・・あの温泉旅館・・・)

一度だけ、そのうちの1軒で昼食をとったことがあるのを憶えていました。
もしあそこに泊まることができるのならすごくいいかも。
そう思って、一応連絡先を調べてみます。
ちょっと勇気を出して電話をしてみると、意外にもあっさり予約が取れました。
続けてレンタカーも手配してしまいます。

(よーし)

楽しみな予定が先にひとつできたことで、なんだか気力が湧いていました。
最近、一人旅をする楽しさを覚えはじめている私です。

(あと3週間か)

その日までは、とにかく仕事を頑張るまででした。

そして旅行当日。
ついにその日を迎えたという晴れ晴れしさで目を覚まします。
経験のないぐらいの長距離ドライブになりますが、むしろ高揚感を持って楽しく挑むような気分でした。

(本当に、これぞ一人旅って感じ)

東京からレンタカーを運転して、直接その温泉地を目指します。
でも、さすがに疲れました。
ようやく懐かしい国道の景色になってきて・・・。

(あと2時間ぐらいだ)

その後も延々と山道を走らせます。
標高が上がっていくごとに山の中は雪で真っ白になってきていました。
スピードを落として慎重に車を走らせます。
最後の未舗装道路に入ったときには、もう午後の遅い時間になっていました。
道路のわきに、温泉宿が見えてきます。
1軒目・・・2軒目・・・目的地でした。
小さな旅館の駐車場に車を乗り入れて、エンジンを切ります。

(遠すぎる・・・さすがに疲れた・・・)

チェックインしたあと、部屋へと通してもらった私は畳にごろんと伸びていました。
これといって特徴のない、古くて小さな旅館です。

(だめだ、疲れた・・・)

ちょっと目を瞑っただけのつもりが、そのまま睡魔に襲われていました。
目を覚ましたのは夕食の時間の少し前・・・。
窓から外を眺めると、もう暗くなっています。

(あああ、勿体ない)

少し後悔していました。
今日は、もうあの野天風呂に行くチャンスはありません。
でも軽く眠ったことで、疲れも取れてすっきりいい気分でした。
質のいい昼寝をしたというか・・・。
体のだるさが完全に抜けた感じがします。

その後、食堂のようなところで夕食をいただいてから宿のお風呂に入りました。
別に特別なことはありません。
ゆっくりと自分1人の時間を過ごしました。

(誰にも気を使ってない、たった1人で旅行をしてる)

そんな大人感を心地よく味わいながら、のんびりお湯に浸かります。
休暇を満喫しているという実感がありました。

(いいねえ)

私は、ごく普通の社会人なのです。
世間の中にうずもれた、多くの女の中の1人・・・。
部屋に戻った私はビールを飲んで早寝しました。

(明日は・・・いいことがあるといいな)

布団をかぶって目を瞑った私・・・。
自分の家にいるときよりも、ぐっすり眠りに落ちていった気がします。

目覚めたのは7時前でした。
窓のカーテンを開けると、眩い朝日が景色を照らしています。
自分の体に漲る力を感じました。
外の空気を吸いたくなって・・・。

(散歩してみよう)

旅館の浴衣の上に直接ダウンコートを羽織ります。
玄関へと向かいました。
宿のサンダルに足を突っ込んで、表の道路に出ます。
朝の空気は・・・。

(寒うっ)

身震いしそうなほどの冷たさでした。
見渡す限りに純白の冬景色が広がっています。
そして遠くの山の稜線までくっきり見えるぐらいに視界が澄んでいました。

(すごく、きれい)

サンダルの指先が、あっという間にかじかんできます。

(寒い、寒い。散歩どころじゃない)

でも、すごく清々しい気持ちでした。
うまく説明なんてできないけれど・・・。
1人ぼっちで立っていると、なんか不思議。
自分が今、まさに『非日常の中にいる』という気がするのです。

部屋に帰って荷物をまとめました。
身支度を整えながら、少しずつ悶々とした気持ちが渦巻いてきています。
きちんと朝食をいただいて、8時すぎにはチェックアウトしていました。
車のエンジンをかけて出発します。

走りだして3分と経たずに、道路脇を曲がったところ・・・。
いつもの駐車場が見えてきました。
ハンドルを切って、一番奥の位置に停車します。

ちょっと迷いました。
目指す野天風呂は、あそこに見える歩道を進んで行った先にあります。
こんな時間ですから、さすがに他に停まっている車なんて1台もありませんでした。
今あの先に行ったところで、まだ誰もいないというのは明白です。
でも・・・。

(行こう)

エンジンを止めて車から降りました。

(べつに構わない)

どうせ時間はたっぷりあるのです。
それこそ、ゆっくりお風呂に入りながら気長にチャンスを待てばいいという気持ちでした。
トートバッグを肩にかけて、駐車場の奥から、森の歩道へと分け入っていきます。

(なんか、もの悲しい)

ざわざわと枝葉が音を立てながら・・・。
人を寄せつけることを拒否しているかのような寒々とした冬の森でした。
ぬかるんだでこぼこ道を1人ぼっちで歩いていきます。

崖下から渓流の水音が聞こえてきました。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸いながら・・・。

(もうすぐだ)

雪の上にぽつんと落ちていたどんぐりに心を癒されます。
逸る気持ちに心が躍るような気分になりました。

(私って、なんでこうなんだろう)

日常では決して味わうことのできないハラハラした気持ちと・・・。
頭に血が上てしまうほど自尊心を掻きむしられる、あの快感・・・。

初めてそれを知ってから、もうどれだけの年月が経ったでしょうか。
いつまで経ってもその興奮から決別できずにいる自分自身に・・・。

(こんなこと・・・いつかやめなきゃ)

心の中では、常に『危うさ』も感じている私でした。

(わかってはいるんだけど・・・)

しもばしらを踏みしめながら、だんだんと目的地が近づいてきます。
朽ちかけた『◯◯湯→』の表示板が見えてきました。
横への階段道を一歩ずつ下りていきます。
崖に沿うようにカーブしていくと、眼下に無人の野天風呂の景色が広がりました。

(ああ・・・また来ちゃった)

来るたびに思うことですが、素敵な眺め・・・本当にいい温泉・・・。
その渓流沿いのお風呂の素晴らしさには、いつも感動してしまいます。

(ああ、私だけ・・・私だけの世界だ)

階段道を最後まで下りきって、男湯スペースに降り立ちました。
そのまま中央を突っ切るように歩いて行って奥にある木戸を抜けます。
石垣を回り込んで女湯スペースへと入った瞬間。

(ん?)

ちょっと変な感じがしました。
もちろん前に来たときと何も変わらない風景がそこにはあります。

(でも・・・何かおかしい)

なんとなく違和感を覚えたのです。
私が今回初めてここに来たのなら、まず気づかなかったことでしょう。
渓流に面しているこの野天風呂です。
女湯にだけ両側に立てられている目隠しのすだれ・・・。
右側のが意図的に外されてしまっている感じがします。
偶然でしょうか。
・・・ただ落ちてしまっただけ?
そっち側は、ちょっとした河原になっていて・・・。
見渡しているときに、(ん?)、遠くくで何かがキラッと反射した気がしました。
私は一瞬にして発見してしまいます。

(あっ)

最初は嘘だと思いました。
河原のさらに向こう・・・対岸側の雑木林のところ・・・。
こちらに巨大な双眼鏡を向けている人がいます。

(ひっ)

ぎょっとしました。
もし普通の女だったら・・・きっと反射的に悲鳴をあげているはずの場面です。
でも私は、まだ半信半疑のまま、未だに自分の目を疑ってしまっていました。

(うそ、嘘・・・さすがにあり得ない)

得体の知れない恐怖感に包まれます。
あんなところに人がいること自体が、なんだか不思議な感じでした。

(嘘でしょ)

でも、やっぱりあれって・・・。
間違いなく、こっちを覗いています。

(本物だ。本物の覗きだ・・・)

ある意味経験したことのない種類の衝撃を受けていました。
とっさに気づかないふりをして・・・。

(本当なの?何かの間違いじゃないの?)

さりげなく景色を眺めているように装っている自分がいます。
そして、(そうか・・・)と。
このすだれが落ちているのも、きっとあの男の仕業なんだなと思い至りました。
その用意周到ぶりを理解して・・・。

(うわぁ・・・まじだ・・・。やばいな、これ・・・)

相手の悪質さを感じ取ってしまいます。

(怖い・・・やっぱり見てる)

距離は50mといったところです。
雑木林の岩のところ・・・。
頭だけを出して、誰かがこっちを見ているのは確かでした。

(あんなにばかでかい双眼鏡で)

本人は気づいていないのでしょうか。
その三脚(?)のどこかにちょうど日差しが反射して、意外にも目立ってしまっていることを。

(今日はだめだ。帰るしかない)

他の選択肢などあり得ませんでした。
あそこにいるのは、まさに確信的な覗きです。
女として言わせてもらうなら・・・。
そうまでしてでも女湯を覗こうとするぐらいの、余程の怪しい男でした。

(怖い)

はからずも、いきなりそんな現実に直面してしまうと、正直、もう恐怖心しかありません。

(こっちを見てる)

とにかく、(関わっちゃいけない)と思いました。
そして、(すぐに立ち去るべき)だと。
頭の中で警告音が鳴りっぱなしです。

(いくら私がそういう目的でここに来たからって)

さすがに、こんな状況でこの場にいられるほど神経は図太くありませんでした。
なんで、いつも私の行く手には・・・こうして、いちいち『何かしら』なことが起こるんだろう?
何もないときには本当に何もないのに・・・。
よりによって、今日に限って、こんな邪魔が入るなんて。
せっかく泊りがけで来たのに・・・。
ゆっくりチャンスを待つという作戦も、こんな状況ではもう不可能です。

(今回は諦めよう)

景色を眺めるふりをして、私もさりげなく向こうのことを観察していました。

(だけど、それにしたって、あの双眼鏡・・・)

なんだか尋常じゃない大きさに思えます。

(10倍?・・・20倍?天体観測用?)

私に詳しい知識はありません。
でも、こうしている間もきっとあの男は・・・私のこの顔を、信じられないぐらいのどアップで見ているに違いありませんでした。

(ねえ、どんな気持ち?こんな美人が現れちゃって)

私の悪いところです。
意識して、澄ました表情を作っていました。

(この子が脱ぎだしたら、生唾飲んじゃう?)

覗き男が、双眼鏡に目をくっつけたままニヤニヤしている様子を想像します。

(ばか、さすがにダメだよ。あんな得体の知れない相手・・・)

昨日からの長い道のりが頭によぎっていました。

(でも・・・このまま帰るなんて)

もわもわと、いけない葛藤が起こってきます。

(危ない?)

たった今、帰るべきだと判断したばかりのはずなのに・・・。
その気持ちがぐらぐら揺らいでいました。

(だめ・・・あんな人の前では絶対だめ・・・)

さっきからずっと景色を見ているふりのままでした。
いつまでもこの状態ではいられません。
体が勝手に動いていました。

<続く>