突然だが、会社を辞めることにした。
と言ってもリストラに遭ったわけじゃなく、ある資格が取れたんで、もう少し待遇の良い別会社へ移籍することにしたわけ。
このご時世、いくら正社員でも身分が保証されてるわけじゃないしな。
入社から4年間、あまり高くない給料で散々こき使われたとはいえ、会社自体に恨みがあるわけじゃない。
いや、少しあるか。

いきなり辞表を叩きつけるのも格好良いかな、と思ったが、そこは社会人。
まずは直属の上司にあたる課長に話しておくことにした。

「えっ!?もう・・・決めちゃったの?」

「はい、だいたいは・・・」

課長は驚いた様子の後、少し悲しそうな、恨みがましいような目を向けた。
もっとドライに対応するかと思ってたから予想外。
何だか申し訳ない気がした。

課長は女性で、俺にとっては大学の先輩でもある。
俺より十何年か上だから学生時代は面識がなかったが、同門が少なかったせいか、入社当時から何かと目をかけてくれた。
現場部門に配属された俺を2年前、企画部門に引き抜いてくれたのも彼女だ。

彼女、若手時代から抜群に仕事ができたらしい。
社内結婚して娘もいるが、出産と育休のブランクをものともせず、同期で最初に管理職に昇進。
仕事と育児を両立するスーパーウーマンってやつだ。
下で働いてみると、確かに能力面では群を抜いてるし、頭も切れる。
その分というか部下への要求も厳しくて、俺もついて行くのがやっとだった。
さすがに脱落して辞めた部下はいなかったが、他部署に異動した奴は何人もいる。
言動が辛辣だったのもあって、尊敬される半面、怖がられてもいた。
俺に人事評価する能力はないが、組織にはできる奴もできない奴もいるわけで、それを束ねる管理職としてはどうなんだろ、と思わないでもなかったな。
まあ、その辺は上層部が判断するわけで、結果さえ出せりゃいいのかもしれない。

ちなみに、旦那は課長と同期。
俺が最初に配属された部署の先輩でもあった。
“上司”じゃなく“先輩”ってのがミソ。
つまり、まだ管理職じゃない。
いかにもキモオタな外見はともかく、仕事はできないし人間関係も作れない。
それほど高いコミュ能力が必要な職場でもなかったが、あれじゃ出世は無理だ。

その旦那、俺が新人の頃からなぜか目の敵にしてて、何かと嫌がらせされた。

「色んな意味で正反対だから気に入らなかったんじゃない?」と同僚の女子社員は言うけど、正直、仕事に支障が出る嫌がらせもあったしな。

結果的にだが、旦那に辟易してた俺を奥さんが拾い上げる格好になった。
両方と仕事した俺から見ても、絵に描いたような月とスッポン夫婦。
社内じゃ陰で、「あの課長、仕事ができても男を見る目はないね」と言われてた。
まあ、一緒に働くのが大変という点じゃ夫婦共通してるか。

もっとも旦那は顔も見たくないが、課長は嫌いじゃない。
むしろ好感を持ってた。
確かに要求水準は厳しいが、言ってることは筋が通ってるし、アドバイスも的確。
口調が厳しくてダメ出しも容赦ないから部下や周囲から誤解されてるけど、結果を出せば評価してくれる。
部下が喜ぶような褒め方じゃないけどな。

旦那は女性からの評判が最悪だったが、課長も決してモテるタイプじゃない。
キツめに結った髪に度の強そうなメガネ。
化粧は少し怖い感じだし、服も高級そうだがセンスが皆無。

『色気のかけらもない女』と見られてた。

とは言え、よく見ると結構整った顔立ちだし、スタイルもそれほど悪くない。
基本的に自分の見せ方が分かってないんだと思う。
まあ、アラフォーのオバさんをまじまじと観察する男もいないだろうけどな。
実は以前、(もしかしたら若い頃は可愛かったりして・・・)と思って、昔の社内報を漁って課長の新人当時の写真を見たんだが、今よりずんぐりした感じで、やっぱり男受けしなさそうだった。

さて、退職の意思を伝えて3日くらい後、課長に「仕事が終わったら、ちょっと付き合いなさい」と誘われた。
配属されて2年間、課長が部下とサシで飲みに行くのを見たことはない。
忘年会とか部署の飲み会でも、たいてい最初だけ顔を出して引き揚げる。
課長がいると宴席でも萎縮する奴が多いから、配慮してたのかもしれない。

連れて行かれたのは、小さなバーだった。

「◯◯君、どうしても辞めちゃうの?」
「は、はい・・・まあ・・・」

「残念だな。大学の後輩ってのを抜きにしても頼りにしてたのに・・・」
「・・・すんません」

声が幾分柔らかで、いつものように射るような鋭い視線でもない。
ちょっと寂しそうにも見える。
普段と違う雰囲気に俺の方が戸惑った。

「来春とは言わないけど、秋くらいまで残るのは・・・無理かな?」

「ええと・・・それはちょっと・・・」

「大きな案件もあるし、この時期に辞められると補充が難しいのよ」

移籍先の会社とはまだ具体的な入社時期を詰めてなかったが、担当者から口頭でなるべく早く来て欲しい、とは言われてた。
今まで世話になった会社と、これから世話になる会社。
どっちとの義理を優先させるかと言えば、やっぱり後者だよな。
そうは思っても課長の困り顔を見ると、悪いことしたな、という気持ちになる。

強めのロックだったが、課長はかなり早いペースでグラスを空けた。
俺はこれまでの感謝を伝えつつ、当面の計画や将来の展望について話した。
自分でも地に足が付いてねえなと思う夢みたいな話だったが、課長はいつもみたいにダメ出しせず、神妙な面持ちで耳を傾けてくれた。

「さあ、もう1軒くらい付き合いなさい!」

「はいっ!」

2人とも結構な量を飲んだし、言いたいことを言ってしまったせいか、1軒目の途中から和んだというか砕けた雰囲気になった。
分かりやすく言えば、酔っ払い。
課長のこんな姿は見たことない。

次に連れて行かれたのは、とてもイメージと合わない高架下の赤提灯だった。

「えーっ?課長もこんな所に来るんすか?」

「そーよ、悪い?まあ最近はご無沙汰だけどね」

課長は店に入ると、ホルモンを摘みながら冷や酒をグイグイ飲み干す。

「でも◯◯君、ちゃんと準備せず夢みたいなことばかりでもダメよお」
「もーっ、夢くらい語らせてくださいよぉ。課長と違って若いんだしw」

「ふ~ん、次のボーナス査定覚えときなさーい」
「いいっすよ。俺どーせ辞めるんだし」

「だ・か・らぁ~、辞めて欲しくないって言ってんのにぃ」

誰が聞いても、あの課長と部下との会話とは信じてくれないと思う。
俺も相当酔ってたが、緊張もせずこんな話ができるのが嬉しかった。
やがて課長は呂律が怪しくなり、メガネの奥の目も焦点が合わなくなってきた。

「◯◯君のことねぇ、うちの旦那がボロカスに言ってたんだよねぇ~」
「えーっ、マジっすか?」

「仕事もできない女たらしってさぁ・・・。女はともかく仕事は満足してるけどねぇ」
「あのオッサン、辞める前に一発殴ってやるw」

「自分だって仕事できないくせにさぁ。仕事も・・・夜の仕事も・・・」

課長は自分が何を言ってるか分かってないらしい。
俺も正直、かなり正気を失って暴言を連発してた。

「課長、なんであんなのと一緒になったんすか?」
「う~ん・・・最初はねぇ、マジメで誠実だと思ったんだよねぇ~」

「あのブタ男のどこが誠実っすか」
「ふ~っ、ほんとは悪いことする度胸も気力もなかっただけなのよねぇ・・・」

今度は俺が飲み代を払った。
1軒目の何分の一かだったけどな。
課長は泥酔状態。
足に来てるらしく、抱えるようにしてようやく立たせた。

「◯◯ク~ン、辞めちゃ嫌だ・・・」

「課長・・・」

課長が俺にしがみついた。
香水と化粧品と色んな酒の臭いが鼻を突く。
腕の中には柔らかな体。
行き場のない劣情が体の奥底から湧き上がってくる。
ふと目を上げると、ラブホテルの看板が光ってた。

<続く>