高校の2年の時、同じクラスになったのをきっかけに付き合い始め、21歳の時に妻が妊娠。

妻は短大を出て働いていましたが、私は学生だったので親に無理を言ってお金を借り、入籍して一緒に暮らし始めて早や25年。
当時妻は妊娠、出産、育児と慌しく、私もまた学生を続けながら休日や夜間はバイトをし、就職活動、就職と忙しい日々で、甘い新婚生活とは程遠い暮らしを送っていました。
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その後もすぐに2人目が出来たことで、ずっと子供中心の生活を送ってきたのですが、子供達が大きくなるに連れて2人の時間も増え、昨年下の息子が私達の手を離れて2人だけの暮らしになった頃には、当時出来なかったことを取り戻すかのように休日には2人で出掛け、平日の夜も時間の合う日は仕事帰りに待ち合わせて、食事をしたりするようになりました。
夜の生活も若い新婚夫婦のようにはいかないまでも、月に1度するかしないかに減りつつあったのが徐々に増えて、週に1度はするようになっていて、他の日でも眠る時にはどちらからともなく手を繋ぐなど、周りの人には恥ずかしくて言えないような生活を送るようになっていました。
特に妻は完全にその気になっていて、セックスの時以外はしなくなってしまっていたキスを度々せがんで来るようになり、私はそのたびに妻を強く抱き締めてそれに応え、そんな妻が可愛くて仕方ありません。

ところが2人だけの暮らしになってから3ヶ月ほど経った頃、会社から帰ると玄関に男物の靴が置いてあり、それを境に妻が徐々に変わっていってしまうのです。

「近藤と申します。図々しくお邪魔してしまって、申し訳ございません」

私は彼と初対面でしたが、初めて会ったような気がしません。
それと言うのも、妻は役所に勤めていますが彼とは1年前から同じ課で働いていて、妻の話によく出て来ていた男だったからです。
確か年齢は私達よりも10歳下で、子供が2人いると聞いたことがあります。
2人は深刻そうにしていたので私は席を外しましたが、彼が帰った後の妻の話によると、彼の奥さんが浮気をして子供を連れて実家に帰っているので、その相談に乗っていたそうです。

「離婚は決まっているのだけれど、条件で揉めているらしいの」

その後の妻は頼られたのが嬉しいのか、彼に没頭していってしまいます。

「今夜待ち合わせて、映画でも観ないか?」

「ごめんなさい。近藤君が苦しそうだから、今夜愚痴を聞いてあげようと思って」

それは平日だけでなく、世話を焼けなくなった子供達の代わりを彼に求めているかのように、休日までも会うようになっていきましたが、年齢が離れていることや彼と会う時は私に必ず言っていくことから、浮気などは全く疑いませんでした。
しかしそれは、次第に後輩の相談に乗ると言う範囲を超えていきます。

「今日は彼の家に行って、食事を作ってあげたの」

「一人暮らしの、男の家に行ったのか」

「もしかして妬いているの?彼とは10歳も違うのよ。私のようなおばさんを相手にするわけがないじゃない。外食ばかりだから、たまにはと思っただけ」

あまりに明るく笑う妻を見て、少しでも疑った自分を恥じましたが、そのようなことが1ヶ月ほど続いた頃、妻の口から彼の話が出ることはピタリと無くなりました。

「近藤君はどうしている?もう相談に乗らなくても良くなったのか?」

「話が拗れていて、専門家に頼んだみたい。そんな暇も無いらしいから」

しかし妻は、残業になったとか友達や同僚と食事に行くとか色々な理由をつけて、私と待ち合わせて食事をすることもなくなり、帰宅時間もかなり遅くなる日が増えたのです。
勿論今までにも友人と食事をして来るくらいのことはあり、残業で遅くなることもあったのですが、このように頻繁に遅く帰ることは初めてで、私は心配で仕方がありません。
出産育児で若い時に遊べなかった妻を可哀想に思っていた私は、妻が楽しければ遅くなることは構わないのですが、その頃から元気が無くなり、時々何か考え込んでいるようだったので心配になったのです。

「あなた。私のこと好き?私はあなたが大好きよ」

「急にどうした?最近何か変だぞ」

休日も私と話しているときは笑顔なのですが、注意して見ていると、時々家事の手を止めて考え込んでしまうなど、明らかに妻の様子が普通ではありません。
しかし相変わらずセックスもあり、キスをせがんで来るのも変わらなかったのでやはり浮気などは疑いませんでしたが、妻を注意深く見るようにはなりました。

「何か心配なことでもあるのか?」

「どうして?何も無いわよ」

いつも妻は微笑みながら答えますが、無理に笑顔を作っているのが分かります。

「明日、典子と恭子が旅行の相談に来るの」

この2人は妻の高校の時からの親友で、同級生だった私も勿論よく知っていて、私達に影響された訳でも無いのでしょうが2人とも結婚が早く、3人の内の一番下の子供が高校を卒業した昨年から、安い旅館や民宿などを探して3ヶ月に一度は旅行していました。
その旅行が来週末に迫っていて、比較的近くに嫁いでいる2人はその打ち合わせに来るとのことなので、私はこの旅行が良い気晴らしになって、元の妻に戻ってくれることを期待したのですが、この時は楽しそうに話していた妻も、旅行から帰って来ると更に元気が無くなり、私を避けるようになってしまいます。

「今夜いいか?」

「ごめんなさい。旅行の疲れがとれなくて」

妻が離れていってしまうような気がして連日誘うと、妻の答えは同じなのですが、疲れていると言いながらも遅く帰るのは変わりません。

「旅行の精算もまだなので、明日は典子達と食事をして来るので遅くなります」

会って食事をしてくるのは構わないのですが、今までなら全て旅行の帰りに精算していて、帰って来てから精算するなど聞いたことがありません。

「本当に典子さん達と会うのか?」

疑われた妻の気持ちを考え、妻に限って浮気は有り得ないと打ち消していた私も、さすがに疑うような言い方をしてしまいました。

「本当よ。他に誰と」

私は妻に明るく笑い飛ばして欲しかったのですが、妻は小さな声でそう答えた後、辛そうな顔をして俯いてしまいます。

「今夜はどうだ?」

そのような妻を見ていると更に心配になり、疑念を振り払いたくて誘ってみると、意外にも妻は首を縦に振ったのですが、今度は私がその気になれません。
それと言うのも、気の弱い私は嫌な方へ、嫌な方へと考えが向かってしまっていたのです。
妻はあれからも近藤と会っていて、既に体の関係もあるのかも知れません。
初めて私以外の男を知った妻は、彼に溺れてしまっているのかも知れません。
最初は私以外の男に興味があっただけの妻も、何度も抱かれているうちに心まで奪われてしまったので、私に疑いを持たれる危険を冒してまで、連日のように会いたいのかも知れません。
そう考えると、私が疑っていると感じて誤魔化す為にOKしただけで、本当は私とセックスなどしたくないのかも知れません。
完全に妄想の世界に入ってしまっていた私は、彼が白くて小柄な妻を組み敷いている姿までもが浮かび、自分の勝手な妄想で勃起することは無く、吐き気まで催してしまう有様です。
結局妻とセックスが出来ず、口では心配してくれているようなことを言ってはいても、すぐに眠ってしまった妻が腹立たしくて眠れません。
やはり妻の愛を確認したいのと、自分の妄想が間違っているのを確認する為に、夜中に妻を起こしてまたことに及んだのですが結果は同じで、更にイライラは募ります。
しかし朝になると、不思議と夜考えていたほどの深刻さは無くなり、やはり妻に限って私を裏切ることなど有り得ないと思えたのですが、また夜になると同じような苦しみを味わうのではないかと思い、妻に限ってありもしない妄想に脅えて、このまま夫婦が壊れていく恐れがあるのなら、無駄になるのは分かっていても、確かめて自分に納得させた方が良いと思いました。
確かめると言ってもプロに頼むような大袈裟なことではなく、妻が典子さん達と会うのを一目確認出来れば、私は元の私に戻れるのです。

その日の午後に、入社以来始めて仮病を使って会社を抜け出した私は役所の前で張り込んでいて、沢山の人が出てくる中に妻の姿を見つけ、駅に先回りをしようとした時、あろうことか妻は駅とは反対の方向に歩き出しました。
当然電車に乗って繁華街で会うと思っていたのですが、妻が歩いていく方向は私の知る限り寂れていくだけで、気の利いた店もありません。
何より典子さんや恭子さんが、車で来ない限り不便で不思議に感じたのですが、それでも妻を信じたくて、この方向に私の知らないお洒落な店でも出来て、そこで待ち合わせているのだと自分に言い聞かせながらついて行くと、妻は五百メートル以上歩いた所にあった、コンビニの駐車場に止まっていた車に乗り込んでしまいます。
私は典子さんか恭子さんの車だと思いたかったのですが、それならこれほど離れた所のコンビニで待ち合わすのは不自然で、何より妻が乗り込む寸前、辺りを見渡す仕草を見せたのが気になり、車のエンジンがかかった瞬間、気が付くと両手を広げて車の前に立ちはだかっていました。
やはり運転席にいたのは近藤で、助手席の妻は顔面蒼白になって固まってしまいましたが、彼は躊躇することなく降りて来ます。

「奥さんには、いつもお世話になっています」

私には、いつも妻の身体の世話になっているとも聞こえ、思わず胸倉を掴んでしまいました。
私は昔から手が早く、昔を知っている友人達は、まさか私が気の弱い男だとは想像もしていないでしょうが、本当は緊迫した場面にいつまでも対峙しているのが怖く、早く決着を着けたくて先に手が出てしまうのです。
その癖は今でも抜けておらず、私は右手を後ろに引いて殴ろうとしましたが、その瞬間ドアを開けて身を乗り出した妻が叫びました。

「あなた。やめて~」

私が妻の声で我に返って殴る寸前だった手を下ろすと、彼はほっとした表情を見せましたが、何も言葉が出てきません。
しかし私も情けないことに、何か話せば涙が出てしまいそうで話せないのです。
仕方なく何も言えずにタクシーを拾ってその場を立ち去りましたが、タクシーの中での私は、殴れなかった自分、何も言えなかった自分、何より泣きそうだった自分が情けなく口惜しくて、身のやり場がありません。
家に戻るとまだ夢の中にいるようで、これが現実に起こっていることとは思えませんでした。
思えないと言うよりも、現実として認めたくなかったのかも知れません。
私は妻を疑いながらも、本当に男と会うなどとは思っていなかったのでしょう。
それで尾行をしている時も、探偵にでもなった気分で少し楽しくさえ感じていました。
私はただ妻が友人達と会っているのを確認して、妻を信用し切っていた元の私に戻りたかっただけなのです。
いつしか涙が毀れてきて、また嫌な妄想に苦しめられていました。
私に彼との秘密を知られた妻は、もう帰って来ないかも知れません。
それは私に対する罪悪感から、顔を合わすことが出来ないという思いからではなくて、家に戻れば愛する彼との仲を引き裂かれるかも知れないという思いからだとすれば、今頃は彼に抱きついて激しく唇を貪っているでしょう。
しかしこのまま家庭や職場を放棄して逃げるわけにもいかず、そうなると妻に男気を見せたい彼が一人で来るかも知れません。
その時玄関の開く音が聞こえたので彼が来たと思った私は、弱い男を見られたくなくて、慌てて顔を洗いに行って戻ってくると、妄想は外れていて妻が一人で立っていました。
妻は俯いて立っていて、よく見ると足が震えています。

「あなた、あれは」

「あれは、何だ?いつ残業があって、いつ同僚達と食事に行って、いつ典子さん達と会っていたのか全て書き出してみろ。典子さん達の所には今から行って確かめる。職場にも明日行って」

妻は最初言い訳をしようと思ったようですが、隠し通せるものではないと観念したのか、膝から崩れ落ちて床に泣き伏しました。
私は目の前で泣き崩れている妻の姿が信じられませんでした。
隠れて近藤と会っていたこともですが、何より妻が嘘を吐いていたことが信じられないのです。

妻は嘘の嫌いな女でした。
私達夫婦の約束事はただ一つ、お互い嘘を吐かないことで、それは入籍する時に妻が言い出したことです。
その言葉通り私は何でも話してきたつもりですし、妻も隠し事はしませんでした。
妻が変わってしまったのが近藤の影響だとすれば、妻も自分の信念を曲げるほど、あの男に溺れていたことになります。
仕切りに許しを請う妻を見ていると、初めて人を殺したいと思いましたが、殺したい相手は妻ではなくてあの男でした。
確かに私を裏切ったのは相手の男ではなくて妻なのですが、今までこれだけ愛してきた妻を、今でもこれだけ愛している妻をすぐに嫌いにはなれず、男に強引に誘われて、私しか男を知らない妻は騙されているのだと何処かで妻を庇ってしまい、怒りは相手の男に向けようとしてしまいます。

「今すぐに奴を呼べ。絶対に許さない」

妻は激しく泣き出して、千切れるほど首を横に振っています。

「あなたに嘘を吐いて会ったことは、申し訳なかったと思っています。でも彼とはそのような関係ではないの」

「それならどのような関係だ。今日だけではないだろ?ずっと嘘を吐いて、あの男と会っていたな?」

妻はゆっくり大きく頷きます。

「抱かれていたのか?」

これには激しく首を横に振りました。
毎日のように会っていながら、そのような関係が無いなどとは信じられるはずも無かったのですが、ここ数時間の出来事に動揺を隠せず、これ以上自分を見失わない為にも、深くは追求出来ずにいました。
しかし私は最悪のことばかりを考えてしまい、涙が出そうになっている弱い自分を誤魔化す為に、わざと大きな声を出して叫ばずにはいられません。

「俺の何が不満だ。俺の何処が嫌でこんな裏切りをした」

「あなたに不満なんかありません。あなたは何も悪くない。嘘を吐いていた私が悪いの。でも信じて。彼の相談に乗ってあげたり、彼の愚痴を聞いてあげたりしていただけです」

「ベッドで聞いてあげていたのか?あの男のことが好きになったのか?俺と別れて奴と一緒になりたいのか?」

「そのようなことは考えたこともありません。私はあなたが好き。あなたのいない人生なんて考えられない。彼とは本当に何も無いの」

私は半信半疑でした。
私を騙していたのが事実でも、やはりそこまでは妻を疑うことが出来ません。
しかし、初めて嘘をつかれた口惜しい思いから、妻を苦しめる言葉しか出て来ませんでした。

「これからどうする?俺と別れて、奴に拾ってもらうか?違うか。俺が捨てられるのか」

「私が間違っていました。彼とはもう会いません。連絡もとりません」

妻は携帯を出して彼の電話番号を削除しようとしたので取り上げると、通話記録やメールは消されていて何も残っていません。

「証拠は全て消してしまったか」

「証拠だなんて」

私は妻が床に泣き伏したのが気になっていました。
嘘の嫌いな妻が、自分が嘘を吐いて会っていたことに改めて罪悪感を持ったにしても、本当にただ相談に乗っていただけなら、あれほどの泣き崩れ方はしないと思ったのです。

「よい歳の大人が毎日のように隠れて会っていて、ただ話をしていただけだと言うのか?」

妻は何も言わない代わりに、何度も首を縦にふっていました。

「嘘を吐け。初めて抱かれたのはいつだ?」

最初妻が体の関係を否定した時、私はそれ以上聞くのが怖くて、それで良いと自分に言い聞かせましたが、いくら胸の中に仕舞い込んだつもりでも、やはり気になってしまいます。

「本当に、そのような関係ではありません。信じて」

妻を信じたい気持ちは有るのですが、やはり悪い方に考えてしまい、最悪離婚となってしまった時に、条件が悪くならないように嘘を吐いているとさえ思えてしまうのです。
体の関係は否定し続けて欲しいのですが、思いとは逆に何とか認めさせようとしている私がいます。

「最近では毎晩のように会っていたのに、体の関係は無いと言うのを信じろと言うのか?」

「あなたを裏切っていたことには変わりないです。そのような関係ではないと言っても、あなたに嘘を吐いて会っていたのだから」

最初オープンに会っていた妻も、それが頻繁になってきたことで、私に言い辛くなってきて、つい嘘をついて会ってしまうようになったと言います。

「信じて欲しいと言うのが無理な話だということは分かっています。これが逆なら私でも信用できないかも知れません。でも本当です」

妻の話は本当なのかも知れません。
発覚するまでの妻の様子を思い出しても、かなり悩んでいて平気で私を騙していた訳ではないことは確かで、涙を流しながら必死に話す今の妻の態度を見ても、もう嘘は吐いていないと思いたいのですが、やはり最悪ばかりを考えてしまい、ここで引き下がることが出来ません。

「隠れて会っていたことだけでも許すつもりはないが、それ以上の関係は一切何も無かったと言うのだな?」

「私はあなたを裏切りました。嘘を吐いて男性と2人で会っていたことだけでも、重大な裏切り行為だと思っています。もう何も信用されなくても仕方ないことかも知れません。でももう一度だけチャンスを下さい。あなたに信用してもらえるような妻になります。お願いします」

「分かった。但し次は無いぞ」

私は持っていた妻の携帯で電話をかけました。

「話がある。いますぐに来い」

彼は黙っていましたが、それを聞いていた妻は携帯を奪い返そうとします。

「私が悪いの。彼をそっとしておいてあげて。あなたの気が済むように私は何でもしますから。お願い、彼は大事な時期なの」

今までは体の関係ばかりが気になっていましたが、妻が近藤を庇ったことで、やはり彼を好きなのではないかと疑ってしまいます。
私よりも、彼を愛してしまったのではないかと気が気ではありません。

「すぐに、お伺いします」

妻のことが心配だったのか、自分のことが心配だったのかは分かりませんが、家の近くまで来ていたらしく、10分もかからずにやって来た近藤は玄関を入るとすぐに土間に正座して、額が着くほど頭を下げました。

「恩を仇で返すようなことをしてしまい、申し訳ございませんでした。でも美雪さんとはキスまでで、それ以上のことはしていません」

一瞬、彼が何を言っているのか分からず、時が止まってしまったような感覚です。
妻を見ると、妻も何が起こったのか分からないような感じで、彼をじっと見ています。

「美雪さん、すまない。秘密にしておけなかった。もう隠れて会うのは嫌だから、ご主人に私たちの関係を知ってもらいたかった。美雪さんのことを真剣に愛しているから」

その言葉で私も妻も正気に戻り、妻は慌てて土間に下りると彼のすぐ横に並んで、泣きながら同じように頭を下げたので、私は頭を下げられて怒りが治まるどころか、仲良く並んでいる姿を見て更なる怒り覚えてしまいます。
私は2人をその場に残してキッチンに行くと、包丁を持って来て妻の前に置きました。

「俺の気が済むことなら、美雪は何でもすると言ったよな?俺は今この男を殺したい。俺の代わりに美雪が殺せ」

「ごめんなさい。出来ません」

「愛する彼を殺すなんて出来ないか?この男を殺すくらいなら俺を殺したいだろ?」

「違います」

その時近藤は身体を起こすと背筋を伸ばし、一度大きく深呼吸をしました。
近藤は身体を起こすと、妻の目をじっと見つめながら口を開きました。

「美雪さん。あなたに殺されるなら本望です。あなたがそれをしなければ困るのなら、私は喜んで殺されます。愛していますから」

私はショックでした。
彼は妻がそのようなことが出来る女ではないと知っていて、格好をつけているだけでしょう。
男らしさを見せて、この期に及んでも妻の気を惹きたいのだと思います。
しかし妻には、どのように映ったでしょう。
包丁を持ち出す理不尽な夫。
そのような理不尽なことにも、毅然としている彼。
その上彼は夫である私の前で、堂々と愛していることを宣言しました。
その時妻は困ったような表情を見せましたが、愛していると言われて、悪い気がするはずはありません。
私は包丁を片付けると、彼を客間に通しました。

「黙って会っていたことは、申し訳なかったと思っています」

「申し訳ない?俺の女房を抱き締めて、キスまでしていたのにそれだけか?」

「例え不貞行為にはならなくても、それも悪かったと思っています。それに偉そうに不貞行為は無かったと言っても美雪さんに断られただけで、私にはその気があったのも事実です。そのことは凄く反省しています」

彼の落ち着いた話し方が、余計に腹立たしく感じます。

「やけに早く反省するのだな。俺に見つからなくても反省していたか?」

「分かりません。ただご主人の気持ちは分かるので、不貞行為は無く、法的には何も問題は無いのですが謝りに来ました。慰謝料が発生するようなこともないので、本当ならここに来る必要も無かったのですが、私も妻に浮気されてご主人の口惜しい気持ちも少しは分かるので来たのです」

このようなことをしておきながら、善意で会いに来たようなことを言う彼に対してまた殺意を覚えましたが、醜態を晒した先程のこともあって、なんとか気持ちを抑えました。
しかし納得がいかないのはそれだけではなく、このようなことをしておきながら、法には触れていないと言う彼の話です。

「私は妻に不倫され、離婚調停も不調に終わって来週裁判があります。ですから、ご主人が私を殺したいという気持ちも分からないではないです。ただ、ご主人が私を訴えるのは自由ですが、法的には何ら裁かれることはなく、慰謝料も発生しません」

「裏切られた者の口惜しい気持ちが分かっていながら、どうしてこのようなことを」

「妻に言われました。人の気持ちまでは法律でも縛れないと。最初は私も殺したいほど憎みましたが、冷静に考えてみればその通りだと悟りました。特に美雪さんを愛してしまってからは」

2人の歳が離れていることで、安心してしまっていたところもありました。
しかしこうして2人を見ていると、妻が小柄なせいもありますが10歳も離れているとは見えずに違和感はありません。
そのことが無償に口惜しくて、私は二度と妻と会わないことを書かせようとしましたが、彼はそれをはっきりと断りました。
不貞行為をしないことは約束したのですが、妻が会ってくれれば、これからも2人で会うと言い切ったのです。

「これからも美雪さんと会うと言っても、美雪さんに断られれば会いません。私は会ってくれると信じていますが、美雪さんの意思に任せます」

彼は深々と頭を下げて帰っていき、私はすぐにネットで調べましたが、全て彼の言っていた通りでした。
不貞行為とは最後の一線を越えることで、それが無ければ2人で会うことも、抱き合うことも、キスをすることさえ許されてしまうのです。
2人を会わせない法律など、どこを探してもありません。
ただ、私から妻に対して離婚は要求すれば通るかも知れませんが、私が離婚したくない場合、妻を拘束出来るような法律など無く、今後彼が妻に接触しても妻が嫌がらない限り、彼を裁く法律など何も無いのです。
要するに不貞行為が無ければ夫婦間だけの問題で、妻が自分から彼に会わないようになってくれる以外、何の手立てもありません。
いくら彼が甘い言葉を囁いて妻を誘おうとも、妻が断れば良いという解釈なのです。
冷静に考えれば確かにその通りなのでしょうが、私は理不尽に感じました。
しかし理不尽に感じる自分を逆から見れば、妻を引き止めておく自信が無いということです。
それは彼の若さも怖かったのですが、それ以上に真面目そうでいて男気に溢れ、臆することなく堂々としているところが怖く、それは妻と30年近く一緒にいると、妻がそのような男が好みなのが分かってしまっているからです。
私は妻の気持ちが凄く気になっていました。

「ただ相談に乗っていたと言ったが、相談に乗るのにキスをするのか?」

妻は俯いていて何も答えません。

「俺達は終わったな」

「許して下さい」

離婚すると言いたいのですが、まだ妻には未練があって、妻を他の男に盗られるなど考えられず、妻の気持ちが分からなくなった今、これ以上離婚を脅しに使えません。

「あいつに愛していると言われて嬉しかっただろ?」

妻はしばらく考えてから、顔を上げて私の目を見ました。

「もう本音で話そう。美雪は若い時から一生懸命俺に尽くしてくれた。同年代の子達は遊んでいた時期に、一生懸命子育てをしてくれた。だから俺は、自由な時間が持てるようになった今、多少帰りが遅くなっても、少しくらいは羽目を外して遊んでも良いと思って何も言わなかった。それどころか、元気の無い美雪を凄く心配していた。ところが俺の心配する心まで踏み躙られて、美雪を想う気持ちまで利用されて裏切られたのだぞ。普通の心を持っている人間なら、到底出来ないような裏切りをされて、これ以上何を言われても驚かないから、もう嘘を吐くのはやめにしてくれ」

泣き止んでいた妻の目から、大粒の涙が毀れます。

「だから正直に話してくれ。彼を愛してもいないのに、俺に隠れてコソコソと会える美雪ではないだろ?愛してもいない男に抱きついて、キスが出来るような女ではないだろ?」

「ごめんなさい。あなたにこんな酷いことをした私は、もう何も言えません。何を言っても、信用してもらえなくて当然です。でも、私が愛しているのは、あなただけです」

自信を無くしていた私は妻の愛を確かめたくて、怒っているふりをしながら、また聞いてしまうのです。

「本当に俺を愛しているのなら、どうして裏切った?どのような気持ちで付き合っていた?」

「最初は本当に相談に乗っていただけです。でも、知らぬうちに彼と会って話すのが楽しくなっていました。あなたの顔を見るたびに、こんなことはやめなければと思いながらも、誘われると嬉しかったです。あなたを裏切っている罪悪感に苦しみながらも、彼と会っている間は罪悪感など忘れられるほど楽しかったです」

「彼を好きだったから楽しかった。彼を愛していたからキスも出来たのだろ?」

「本当にどうかしていました。ごめんなさい」

妻は声を出して泣き出しましたが、それでも聞かずにはいられません。

「まだ隠していることがあったら、今のうちに話してくれ」

妻は部屋を飛び出して行き、私は追いかけてでも問い詰めたかったのですが、さすがにそれはやめました。
近藤に比べて自分が凄く小さな男に感じ、私に妻と離婚することが出来ないのなら、このままではどんどん嫌われていくような気がしたのです。
一人残された私は、必死に妻と彼を隔てる方法を考えていました。
携帯を取り上げて持たせない。
役所に乗り込んで抗議し、配置転換を頼む。
または、仕事を辞めさせて、家から出さない。
今度あの男と関わったら、妻の実家や子供達に話すと脅す。
その他にも今後2人で会っているのが分かったら、たとえ名誉毀損で訴えられようが、犯罪者になろうが徹底的に付き纏って必ず彼を潰してやると脅せば、妻が近藤を愛していた場合、妻の性格からすればかなり効果があると思います。
他にも色々思いつきましたが、これらの方法では彼が言っていたように、体は縛ることが出来ても妻の心までは縛れません。
物理的に肉体だけが戻ってきても、私は満足できないのです。
愛し愛されていた数ヶ月前の夫婦に戻れなければ、何の解決にもならないのです。

そう考えていると、私は神など信じていませんでしたが、これは神が与えた試練のような気がしてきて、妻を一切縛りつけず、しばらく距離を置こうと決めました。
それでも妻が、私のところに戻ってくるか試したかったのです。
その日から寝室は別にして、食事もほとんど外で済ませるようにしました。
休日は、以前営業をしていた時に得意先の社長に付き合わされて覚えた、今ではほとんど行かなくなってしまっていた釣りに行きました。
必要最小限の会話しかしなくなり、妻が話しかけてきても返事をする程度です。
一方妻はと言えば一切の付き合いをやめて、仕事が終わると真っ直ぐに帰って来て、家に着くと必ず電話をかけてきます。
休日も出掛けることはしないで家にいて、食料品などを買いに出掛ける時や帰って来てからも必ず電話して来ましたが、私はいつも愛想のない返事しかしません。
そのような生活がしばらく続くと、私は許すきっかけが掴めなくなってしまい、拗ねた子供のように意地になってしまっていました。
自分で始めたことなのに、やがてそれは私の精神を不安定にし、妻に嫌味を言うようになったので、これでは会話をしないほうがマシだと思いながらも、自分では歯止めが掛かりません。

「若い近藤のは硬くて気持ち良かったか?近藤に抱かれた後、俺のでは物足りなかっただろ?」

「私が悪かったです。でも、そのようなことはしていません」

「最近やけに電話をかけてくるが、近藤と会っていないと思わせて、俺を油断させる気だな。毎日抱き合ってキスしていた男と女が、そう簡単に別れられるはずがない。そうか、分かったぞ。同じ日に休暇をとって、平日の昼間ホテルに行っているのか。そうなのか?」

「今度タイムカードのコピーを持ってきます」

「ふて腐れて言っているのか?」

「違います。疑われても仕方がないことをした、私が全て悪いから」

こんな会話が1ヶ月続き、精一杯明るく振る舞おうとしていた妻も、さすがに笑顔を見せなくなっていました。
私は更に壊れていき、毎日帰ると妻を裸にして何処かにキスマークがついていないか、調べることまでするようになっていました。

「あなた、こんな事はもう許して。私は取り返しのつかないことをしました。あなたを凄く傷つけました。でもあれからは会っていません。今はあなただけを見ています」

近藤と会っていないのは本当だと思います。
しかし時が経てば経つほど、抱き合ってキスをしていたことを隠していたことが重く圧しかかり、まだ他にも隠していることがあるのではないかという思いが強くなっていきます。

「どうだかな?何しろ美雪は、平気で嘘が吐ける女だからな。第一、二言目には会っていないと偉そうに言うが、役所で顔も合わせないのか?」

「同じ課にいるので顔も合わせますし、仕事では話もします」

「ほらみろ。会っていないなんて嘘じゃないか。本当に平気で嘘を吐く女だ」

「あなたが仕事を辞めさせてくれない限り、それは無理です。職場以外では会っていないし、仕事以外の話はあれから一度もしていません。私が仕事を続けていることで、あなたを苦しめてしまうのなら、もう仕事は辞めさせて下さい」

「俺のせいにするな。美雪の気持ちは分かっている。大好きな彼を毎日見ているだけでは辛いから辞めたいだけだろ?」

「もうやめて。私は彼から電話が掛かっても、一度も出ていません。メールが来ても、開けずに削除しています」

近藤がいまだに妻を誘ってきていることを知り、それは妻が悪いのではないことは分かっていても面白くありません。

「そんな事は聞いていなかったぞ」

「言えばあなたが、気分を害すると思って」

「嘘を吐け。嬉しいくせに。今度から来たメールは消さずに見せろ」

妻は耐えられずに泣き出しましたが、嫌味を言っている私も苦しいのです。

「泣くな。泣きたいのは裏切られた俺だ。美雪は一生償うとか、何でもするとか口ばかりで、今まで俺に何をしてくれた。どのように償った。結局俺の気持ちが収まるのを、ただ何もしないで待っているだけだろ。泣いていないで、今まで俺にどのような償いをしたのか言ってみろ」

「ごめんなさい。どのようにすれば良いのか分かりません、どのように償えば良いのか教えて下さい」

何をしてもらえば楽になれるのか自分でも分かりません。
分からないが故に、無理なことしか思い浮かばないのです。

「明日役所に行ったら、近藤が毎日メールや電話をしてきて困ると上司に訴えろ。ストーカー行為に困っているから処分してくれと頼め」

「それは」

「出来ないよな。迷惑どころか、誘われて嬉しいのだから」

「違います」

翌日仕事から帰って来ると、妻の姿は何処にもありませんでした。
私はすぐに妻の携帯に電話しましたが、電源が切られていて繋がりません。
私の脳裏に近藤の顔が浮かびましたが、そのようなことをすれば私達は完全に終わってしまうことは妻も分かっているはずなので、典子さんか恭子さんの所に行ったのだと自分を納得させて、私が無理難題を言い過ぎたことの反省も込めて待つことにしました。
しかし妻は、いつまで待っても帰って来ません。
私は眠れぬ夜を過ごし、翌朝2人に電話しましたが妻は来ていないと言います。
気が付くと、私は彼の住所が書かれたメモを握り締めて家を出ようとしていましたが、その時電話が鳴ったので妻かと思って慌てて戻って出てみると、それは典子さんでした。

「さっきは聞き辛くて何も聞かなかったけれど、やっぱり心配だから電話させてもらったの。美雪に何かあったの?」

「いや、大したことではないから」

「こんな朝早くに電話して来て、大したことじゃないなんて嘘でしょ?それに最近の美雪は変だもの。この間お邪魔した時は、旅行をあんなに楽しみにしているようなことを言っておきながら、私達に何も言わずに自分だけキャンセルしたのは何故?驚いて電話しても謝るだけで理由は絶対に言わないし。私の知っている美雪は、そんな人間では無かったわ」

私はあまりのショックで、その後彼女と何を話したのかさえ覚えていません。
あの日、妻は確かに宿泊先の温泉地のお土産を買ってきました。
典子さん達と行かなかったにしても、その温泉地の近くの土産物屋かサービスエリアには立ち寄っているはずです。
日帰りで行けないこともないのですがかなり厳しく、その周りには他にもいくつかの温泉地が点在しています。
私の脳裏には近藤と2人で家族風呂に浸かっている姿や、旅館の部屋で2人が裸で絡み合っている姿ばかりが浮かび、もう切れている受話器を持ったまま、その場に座り込んでいました。
結局その日は、情けないことに仕事にも行けずに寝込んでしまいましたが、夜になってチャイムが鳴り、玄関を開けると妻が立っていました。

「どこに行っていた!」

「勝手をしてごめんなさい。独りで考えたくて」

「何処に泊まった!」

「ホテルに」

「近藤と泊まったのか?」

「違います」

気が付くと、初めて妻に手を上げてしまっていました。
妻の頬は見る見る赤くなり、自分でやっておきながら私自身かなりのショックを受けてしまい、暴力を振るった情けない自分を誤魔化す為に、声は大きくなってしまいます。

「美雪の言うことは、もう何も信用出来ない。この間の旅行は誰と何処に行ったのか言ってみろ!」

「ごめんなさい。言えませんでした。いつか知られると思っていても、知られれば離婚されると思うと言えませんでした」

妻は友達に口止めをしていませんでした。
おそらく、自分がそのような裏切り行為をしているとは、親友にも言えなかったのでしょう。
しかしそれでは、いくら私が今まで彼女達に直接連絡を取ることはなかったと言っても、ばれる可能性はあります。
そう考えると、妻はそのような危険を冒してまで、彼と旅行に行きたかったことになります。
もっと悪く考えると、ばれたらばれたで良いと思っていった可能性もあるのです。

「離婚だ!」

私は妻を突き飛ばすと、勢いよくドアを閉めました。
妻はずっとドアの向こうで泣いていましたが、しばらくして泣き声が聞こえなくなったので様子を見てみると、着替えの入った大きめのバッグだけが残されていて、妻の姿は何処にもありません。
私は離れていく妻が心配ですぐにでも探し回りたいのですが、惨めになっていく自分が嫌でそれも出来ずに、強がって自分を誤魔化しながら朝を迎えました。
幸いこの日は土曜だった為に仕事は休みだったのですが、仮に平日だったとしても仕事が出来る状態ではありません。
それどころか何もする気力が無く、息をしていることさえ辛いのです。

「美雪さんに頼まれて来ました」

昼過ぎにやって来た近藤は、勝ち誇ったように笑みまで浮かべています。

「美雪はお前の所に泊まったのか?」

「はい。ただ誤解しないで下さい。私は暴力に脅える美雪さんを匿っているだけで、何もしていません。不貞行為は一切していません」

「その前に2人で旅行にまで行っていて、今更何を言っている」

「確かに旅行に行きましたが、ホテルの部屋は2部屋とりました。一緒に食事もしましたがそれはホテルのレストランで、夜は別々の部屋で寝ました。逆にお聞きしたいのですが、そこまで美雪さんを信用出来ないのですか?」

近藤は自分の行為を棚に上げ、夫婦の信頼関係の無さを責めてきます。

「俺も少しは勉強した。男女が2人だけで密室に数時間いれば、不貞行為とみなされても仕方がないらしいな」

しかし近藤は、お互いの部屋には一歩も入っていないと言って認めません。

「友達なので一緒に旅行に行った。しかし同姓ではないので部屋は別にとった。それのどこが不貞行為です?別々に部屋を取ったことはホテルに確かめてもらえば分かるし、同じ部屋に居たと言うなら、写真家何か証拠が要ります。第一私達はそのような行為はしていないので、訴えると言うのなら受けて立ちます。今回も私は、ご主人のDVから美雪さんを保護しているだけですから、慰謝料など発生するはずはありません。それにしても女性に暴力を振るうなんて、最低な男ですね」

更に近藤は、今回妻が泊まったことで仮に不貞行為と見られたとしても、暴力まで振るっていたので既に夫婦は破綻していたと見るのが相当で、請求されても支払う義務は無いと付け加えました。

「今回のはDVなんかじゃない。常習的に暴力を振るっていた訳ではない」

「すぐに暴力を振るう男は、みんなそう言いますよ。これは立派な離婚事由だし、当然慰謝料の対象にもなる」

前回会った時もそうでしたが、私から慰謝料の話など一切していないのに、近藤は異様に気にしているように感じました。
それどころか、今回は私から妻に慰謝料まで払わせようとしています。
何故か近藤は絶えずお金にこだわっているように感じましたが、今の私はそれどころではありません。

「美雪はどうしている?」

「朝まで眠れなかったので、今頃は疲れて眠っていると思います。ああ、誤解しないで下さい。変な意味ではありませんから」

近藤はわざと意味ありげな言い方をして、更に私を揺さ振ってきます。

「今すぐ美雪に帰って来るように言え」

「それは出来ません。美雪さんは暴力に脅えているので、しばらく私が預かります。それが駄目なら、警察に保護をお願いするしかありません。今回お邪魔したのは、これを頼まれただけですから」

近藤に手渡された物は、すでに妻の欄には署名されている離婚届でした。

「何だ、これは!」

「離婚届です」

「そんな事は分かっている」

「いい加減に美雪さんを解放してあげたら如何ですか?いくら未練があっても、片方の気持ちが離れたら夫婦は終わりです。昨日の夜叩き出されたばかりなのに、もう離婚届を持っていることに疑問を感じませんか?そうです。美雪さんはもっと前から、ご主人と別れたくて準備していたのです。私とのことが離婚原因ではなくて、以前から離婚を考えていたのです」

私はこのような時にも面子を気にしてしまい、妻を返してくれとは言えずにそのまま近藤を帰してしまいました。
私は妻を取り戻しに行きたいのですが行けません。
二人の前で、離婚はしないとか戻って来いとか、いかにも未練があるようなことを言わなければならないのは、プライドが許さないのです。
何より妻に断られた時のことが怖く、近藤を愛しているから帰らないとでも言われたら、私は立ち直れないような気がします。
そのくせ、妻を諦めることなど出来ない。
夜になると、妻と近藤が裸で抱き合っている姿ばかりが浮かんで眠れません。
こんな夜は早く明けて欲しいと願いましたが、朝になればなったで、今頃妻は裸のまま近藤の腕枕で眠っているかと思うと気が狂いそうです。
昼近くになり、ここ数日の睡眠不足も重なって精神的に限界を超えてしまった私は、妻の名前が書かれた離婚届をテーブルの上に広げて、強くペンを握り締めていました。
しかし、いざ書こうとすると、妻と出会った頃からの30年が思い出されて書くことが出来ません。
私は一時間近くも離婚届を見つめていましたが、ようやく決心をして震える手で名前を書こうとした時、けたたましく電話が鳴ったので出ると、聞こえてきたのは近藤の声でした。

「書いて頂けましたか?離婚届は休日でも受け付けてもらえますから、今日にでも出して下さい」

「お前に何の関係がある。これは俺達夫婦の問題だ」

「ところがそうではないのです。正式に離婚が決まり次第、私は美雪さんにプロポーズするつもりですから。まあプロポーズすると言っても形式的なことだけで、昨夜の甘えようを見ると、美雪さんの気持ちも決まっているようですが」

「どういう意味だ」

「そのままの意味ですよ。朝まで甘えられて、私もふらふらです」

私は近藤の裏の顔を見た思いでした。
妻の前では誠実な男を演じていますが、本当はそのような男ではありません。

「何度も言うように、ご主人の暴力によって既に夫婦として破綻しているので、昨夜のことで慰謝料を請求しても無駄ですよ」

「そんなことを言うために、わざわざ電話してきたのか?」

「いいえ。美雪さんはご主人にかなり脅えていて、もう会いたくないし話したくもないと言っているので、美雪さんの代理として財産分与と慰謝料のことで電話させて頂きました。まず財産分与はですが、これは美雪さんの当然の権利ですから、きちんとしてあげて下さい。それと、今までの暴力に対する慰謝料ですが」

「勝手なことを言うな。まだ離婚など決めてはいない」

「そうですか。前にも言ったように、例え夫婦でも気持ちまでは縛れませんよ。私は妻が他の男を好きになった時点で、潔く離婚を決めました」

妻の気持ちが離れたのに、まだ未練たっぷりな女々しい男だと言わんばかりです。

「仕方ないですね。それなら、美雪さんはお金も持たずに家を追い出されたので、すぐに当座の生活費だけでも振り込んでやって下さい。着の身着のままで出て来ましたから多めにお願いします。私達はもうすぐ夫婦になるのですから、お金のことなど気にしないで良いと言ったのですが、着替えの服や下着などを買ってあげただけで凄く気にしているので明日にでもお願いします。振込先は」

妻の通帳はこの家にあるのでそうなのかも知れませんが、一方的に話す近藤が指定した振込先は自分の口座でした。
いかにも妻の為を思ってのような言い方ですが、やはり彼は明らかにお金にこだわっています。
慰謝料、財産分与、生活費など、私に話す内容には必ずお金の話が出てきます。
近藤に対する不信感が更に募り、戦意を喪失していた私に気力が戻って、一度彼のことを調べてみることにしました。

知人に紹介してもらった興信所は仕事が早く、翌日相談に行ってから2日後には私の知りたいことを全て調べ上げて報告書を持って来てくれましたが、その内容を見た私は愕然としてしまいます。

近藤は少し前に離婚が成立していましたが、離婚理由は奥さんの浮気ではなくて、彼の浮気が原因でした。
浮気相手は、部署は違えどやはり役所に勤めていた8歳年上の人妻で、彼女は浮気がご主人に知られてすぐに退職しています。
別れた奥さんも5歳年上なことから、近藤は年上の女性が好きなのでしょう。
その他にも、やはり近藤には借金があり、借金の額までは分かりませんでしたが数社から借りているらしく、結構な金額だと思います。
その上別れた奥さんと浮気相手のご主人に対する慰謝料や、子供達への養育費も月々支払っていくことに決まったらしく、それで異常にお金に執着しているのでしょう。
私には近藤の考えていることが、少し分かるような気がしました。
この家にはローンも残っていますが、それでもお金に換算すればそこそこの金額にはなります。
他にも多少の預金や保険もあり、妻の取り分を使えば借金も返済出来るでしょう。
その他にも、妻と結婚すれば毎月妻の給料も入って来るので、月々の支払いはかなり楽になります。
妻のことを好きなのは事実かも知れませんが、妻のお金を当てにしているのも確かだと思うと、例え妻の気持ちが私に無くなっていても、このまま別れるわけにはいかなくなりました。
このままでは妻だけでなく、この家まで手放すことになり兼ねません。

次の日、会社を早く出て近藤の住んでいる賃貸マンションに行くと、少しして妻と彼が帰って来ました。
近藤は何か用があるのか、妻を車から降ろすとそのまま出掛けたので、妻の後を追って部屋まで行ってチャイムを鳴らすと、ドアの向こうに人の気配はしたのですが返事はありません。

「美雪、そこに居るのは分かっている。出て来ないのなら、今度は子供達と来る」

そう叫ぶと妻はようやくドアを開けたのですが、数日会わずにいただけないのに少しやつれて見えます。

「子供達には言わないで」

「ここまでしておいて何を言っている。とにかく、一度家に戻って話そう」

妻は急に大きな声を出して泣き出し、終いには立っていられずにその場に座り込んでしまったので、私は妻の腕を掴んで立たせて、家に連れて帰ろうとしましたが動きません。

「ごめんなさい。私は帰れない。もうあなたの所には帰れないの」

妻の泣き叫ぶ声で隣の人がドアを開けて覗いていたので、私は引きずるようにして車に押し込みましたが、やはり家に着くと降りようとはしませんでした。

「もうこの家には入れない」

「今更何を言っている。奴と2人で旅行にまで行っていたのに、平気で暮らしていたじゃないか」

「ごめんなさい。でもその時はまだ」

「中で話そう。近所の人もおかしく思う」

ようやく妻は家の中に入りましたが、ただ泣いて謝るだけで何も話さず、時間だけが過ぎていきます。

「美雪はもう俺の妻ではなくて、あいつの女になったのか?」

しかし妻は、そのことについて肯定も否定もしません。

「俺のことが嫌いになったのか?近藤を愛しているのか。そうなら俺も美雪を諦めるように努力する」

妻は一瞬泣き止んで、不思議そうな顔をして私を見ました。

「私を諦めるように努力する?そんな」

妻はまた激しく泣き出したので、落ち着くのを待って訳を聞くと、妻は離婚などする気は無かったと言います。

「嘘を吐いて彼と会ってキスまでしていたのに、勝手だと分かっていても、あなたと別れるなんて考えられなかった。あなたを騙し続けて旅行にまで行っておきながら、あなたのいない人生なんて考えたこともなかった。でも、あなたに離婚を決められたら、私は何も言えないから」

あの離婚届は近藤が用意してあった物で、半ば強引に書かされたそうです。
しかしそれは離婚する為ではなく、これを書いて私に見せれば、驚いた私は必ず許してくれると言われて書いた物でした。
しかし私に会って帰って来た近藤は、思っていたよりも私の怒りは強く、もう妻に対しての愛情は微塵も残っていないので、すぐにサインして出しておくと言って、すんなり受け取ったと妻に報告しました。
更に近藤は、どれだけ説得しても私は頑として受け付けず、あの様子では許すことは絶対に無いだろうから、もう諦めて次の人生を考えた方が良いとまで言われたそうです。
妻は自分のしてしまった事の重大さに改めて気付き、軽い気持ちから始まった今回のことを悔やんだと言います。

「もう一度聞くが、美雪は近藤を愛しているのか?」

「こんなことを言える立場ではないし、もう信じてもらえないでしょうが、私が愛しているのはあなただけです」

「でも、近藤を嫌いではないのだろ?」

「愛しているのはあなただけです。でも」

「でも何だ」

「彼のことも、好きでした」

私には愛しているのと好きなのが、どの程度の違いなのかは分かりませんでした。

「身体の関係もあったな?キスだけだと言っていたが、それは嘘だな?」

「いいえ、ずっとキスだけでした。何度かホテルにも誘われましたが、そのたびに断ると、彼は素直に聞き入れてくれました」

「それを信じるとして、キスくらいは良いと思っていたわけだ」

「最初、突然キスされた時は怒って帰りました。次の日また誘われたので、もう2人では会わないと断りました。すると、会って謝りたいと言われてずるずると」

妻は怒りながらも、若くて好みの男と会って話すことの楽しさから抜けられず、次にキスをされた時には、これ以上の関係にさえならなければと自分を納得させてハードルを下げてしまい、人妻を抱き締めてキスをしてくるような男なのに、それ以上のことはしてこない近藤を、逆に誠実な男だと勘違いするようになっていきます。
おそらく近藤は、妻に気に入られるように誠実な男を演じながら、いつかは自分の女にしてやると心の中で思いながら我慢していたのでしょう。

「そうすると、旅行に行った時が初めてか?」

「いいえ、その時も最後までは」

「2人で旅行にまで行っていて、何も無かったことはないだろ」

妻は近藤と2人で旅行には行ってみたかったのですが、キス以上のことをする気は毛頭無かったと言います。
そのためにホテルの部屋は2部屋とってもらい、同じ部屋で泊まらないことは近藤にも了承してもらっていました。
しかし、夕食が終わった後に妻の部屋で話をしていた時、突然ベッドに押し倒されてキスをされてしまいます。

「その時は必死に抵抗しました」

「どうして?キスは既に受け入れていたのだから、抵抗する必要もないだろ?」

「キスだけではなくて、身体を触られたから。浴衣の裾から手を入れてきて下着越しに触られたので、このままだと最後までされてしまうと思って」

妻の激しい抵抗に合った近藤は、その時も誠実な男を演じて、妻に何度も謝りながら引き下がったそうです。
妻が旅行を承諾した時点で、近藤はOKしたと思ったはずです。
2部屋とったのも私に知られた時の予防策で、当然その気で旅行に行ったはずです。

しかし近藤は引き下がった。

この事で私は、逆に近藤のずる賢さを感じました。
私も色々調べましたが、ラブホテル以外のホテルに2人で入っても、同じ部屋に数時間滞在したことを証明出来なければ、不貞の証拠としては弱いのです。
今回も2部屋とっていたので2人で旅行に行っていても、同じ部屋で泊まったことを私が証明しなければ、下手に訴え出ると逆に名誉毀損で訴えられる可能性もあるのです。
離婚問題で揉めていた近藤は、色々調べてこの事を知っていた。
妻が抵抗せずに身体を許したなら、妻と口裏を合わせるつもりだったのでしょう。
しかし抵抗されたことで、そこまでの関係になると、ばれた時に妻が私に嘘を吐き通せないと感じたのかも知れません。
妻が証言すれば、不貞行為があった証拠の一つになってしまいます。
そこで近藤は、ベッドに押し倒して抱きつきながらも思い止まったのでしょう。

私はそこに何があるのか考えました。
そこで我慢することは、妻に誠実な男をアピールすることができ、妻がより近藤に惹かれる可能性もありますが、逆に一つになることで、より妻が近藤から離れられなくなることも考えられます。
それならば何故引き下がったのか。
そこには、慰謝料が発生するかどうかの違いしか無いように感じました。
近藤は、何があってもお金を払うことは避けたいのです。
近藤にとっての最善は、慰謝料など一切払うことなく妻とそれに伴うお金を手に入れることで、最悪は妻も手に入れられずに、慰謝料などのお金を払わなければならなくなることなのです。

「近藤と食事に行ったりした時は誰が払った?」

「相談に乗ってもらっているのだからと言われて、ご馳走になっていました」

「付き合いだしてからは?」

「その時も」

「美雪、近藤にお金を貸していないだろうな?言いたくなければ調べるが」

「ごめんなさい」

離婚裁判をしていて別居中だった奥さんが、急に実家を出てアパートで暮らすことになったので、子供達のことを考えて少しでも広い所に住まわせてやりたいからボーナスまでお金を貸して欲しいと言われて、妻は20万も貸していました。
妻はご馳走してもらった気になっていますが、結局は自分が出していたのです。
私は男に騙されて貢いでいた女の話を聞くと、いくらなんでもどこかで気付くはずで、それは知っていて騙されているのだと思っていました。
そんな馬鹿な女が実際にいるのかと呆れていました。
しかし今、目の前にいる私の妻はその馬鹿な女なのです。

「旅行に行った時の宿泊費は、誰が払った?」

「旅行前に、急に子供が病気になって入院したから、お金を振り込んでやって持ち合わせがなくなったと言われて私が貸しました」

「奥さんは今でも実家で暮らしているし、子供達も元気だそうだ」

「えっ?」

こう言っただけでは、おそらく妻は別れた奥さんが嘘を言って、近藤からお金を騙し取ったと思っているでしょう。
妻の話が本当だとすると、私が妻を家から放り出すまでは、セックスはしていなかったことになります。
抱き合ってキスをしただけでも許せませんが、セックスをしたのかどうかでは天と地ほどの差があり、ここ数日でそのような関係になってしまったとすれば、意地を張って妻を放り出したことが悔やまれてなりません。
家に帰れないという妻の言葉からも、そのような行為をしたのは想像出来ますが、間違いであって欲しいと微かな望みを持ちながら、恐る恐る妻に尋ねました。

「近藤は朝まで美雪が甘えてきたと言っていたが、関係をもったのだな?」

「甘えてなんかいません。でも」

私の願いも虚しく、そのあと妻は頷いてしまいます。

「どうしてだ!」

「彼があなたに会って帰って来て、離婚届けにあなたもサインしたと言われて」

最初、妻は子供達が手を離れたことで何かが変わり、私との生活が壊れることなど考えもせずに、ただ恋愛ごっこを楽しんでいただけかも知れません。
子供が巣立った時、私には妻が全てになりましたが、妻は開いた穴を私だけでは埋められなかったのでしょう。
それでもきっかけさえ無ければそのような生活に慣れて行ったのでしょうが、運悪く近藤が近づいてきた。
それも、最初からデートしてくれと言ってきたら断っていたのを、妻の世話好きを利用して相談を持ちかけるように。

次に妻が変わったのは、キスをするようになったことだと思います。
妻が言う通り最初は嫌だったかも知れませんが、それは近藤が嫌いだから嫌だったわけではなく、ただ私に対する罪悪感から嫌だと思っただけなのでしょう。
しかし、断り続けて近藤が離れてしまうのも怖く、私以外の男に初めて抱き締められて唇が唇に触れる、私とは全く違った新鮮な感覚も覚えてしまう。
いいえ、新鮮な感覚と言うよりも、快感とも呼べるものから離れられなくなってしまった。
それで危険まで冒して、旅行にまで行ってしまったのでしょう。

私か近藤かのどちらかを選ばなければならないとすると、妻は私を選んだと思います。
私との生活が今まで通りあった上で、近藤とも付き合っていたかった。
いつまでもこのような関係が続くはずがないと思っていた妻は、最後の一線さえ越えなければ、いつでも私に戻れるという安易な考えがあったのでしょう。
しかし私との仲が拗れて、離婚という言葉が浮かんだ時、近藤に頼ってしまった。
更に私との離婚が現実のものとなった時、近藤に縋った。

妻もただの弱い女でした。
妻は神聖な存在で、普通の女とは違うと勝手に決め付けていましたが、それも私の幻想でしか無かったのです。
いいえ、付き合うとまでは思っていなくても、妻も素敵な男性から声をかけられれば、心ときめく普通の女だと知っていたのかも知れません。
いくら疑ってみても、最後には妻に限ってと思うことで逃げていただけで、自分の弱さを誤魔化していたような気がします。
今回も妻がいなくなった時点で、すぐに近藤の所に行っていれば最悪の事態は免れたものを、ちっぽけなプライドを捨てることが出来ない自分を、それが強さだと誤魔化していた。
結局は自分の弱さ、妻の弱さに気付いていながら、自分達は特別だと思いたかっただけなのです。

「でも」

「でも何だ!」

「いいえ、言い訳にはなりません」

「何が!」

私は口惜しさで一杯になってしまい、妻の服を無理矢理脱がそうとしました。

「裸になれ。汚れた身体を洗ってやる」

妻は必死で抵抗しましたが、その時スカートが捲れてしまい、妻の穿いているパンティーが露わになると、私はあまりのことに驚いて手を放してしまいます。

「美雪!」

妻は見たことも無いような、およそ歳には似つかない、赤く小さなパンティーをはいていました。
妻は走って部屋を出ていきましたが、私は後を追うことも出来ずに立ち尽くしてしまいます。
妻と近藤が関係を持ったことは勿論ショックでしたが、想像だけで裸で抱き合っている姿を実際に見た訳ではありません。
しかしあのような下着を目の当たりにしてしまうと、妻と彼との関係が現実のものとして迫ってくるのです。
マンションに戻った近藤は、妻がいないことに気付くとすぐに電話をかけてきました。

「美雪さんを連れ去っただろ。今から迎えに行くから返してくれ」

夫である私に妻を返せという言葉に怒りを覚えましたが、何も言わずに電話を切ると、しばらくして血相を変えた近藤がやってきました。

「美雪さん、帰ろう」

しかし妻は、俯いたまま動きません。

「どうした?また暴力で脅されたのか?」

私は俯いて立ち尽くす妻の背中を押しました。

「行けよ。こんな男に抱かれた女と、一緒に暮らす気など無い」

「こんな男とは、どういう意味ですか」

「嘘で固めて、なんとか女をものにしようとしている男だ」

「私が嘘を吐いていると?」

「ああ、誰が妻と離婚すると言った?」

近藤は私を無視して、妻の方を見て叫びました。

「美雪さん本当だ。ご主人は嘘を吐いている。美雪さんにはもう愛情は無いから離婚してやると、私にはっきりと言ったんだ」

「美雪から騙し取った金はどうした?別れた奥さんは実家にいたし、子供も病気などしていない」

「何処で調べたかは知らないが、それが本当だとしても私は知らなかった。お金は別れた妻に送った。本当だ」

「残念だが調べさせてもらった結果、お前の浮気で離婚したことも分かったし、他にもかなりの借金があることも分かった」

妻は驚いた顔をして私を見ましたが、近藤はこの期に及んでも言い訳を繰り返していました。

「美雪さん、それは違う。母親がそんな女だと知ったら、一緒に暮らす子供達が可哀想だと思って、私が悪者になってやっているだけだ。確かに借金もあるが、それも別れた妻が作った借金を私が返済しているんだ。浮気も妻がしたことで、借金も妻が」

「美雪、そういうことだそうだ。抱かれた男が、誠実な男で良かったな。早く行ってやれ。ここにいても、お前の居場所は無いぞ」

妻は激しく首を横に振って、私から離れようとはしません。
その様子を見ていた近藤は、明らかに苛立っていました。

「美雪さん、私を信じて欲しい。女性に手を上げるような男には見切りをつけて、私と来てほしい。必ず私が幸せにしてみせる」

「もう茶番はやめろ。お前の浮気相手だった奥さんの住所や氏名まで分かっている。なんなら、今から別れた奥さんの所に行って、みんなで話を聞くか?」

「別れた妻が、今更本当のことを話すはずがない」

「それなら、何故お前が慰謝料を払うことに決まった?話が本当なら、本来慰謝料をもらえる立場だろ」

「慰謝料など請求されていない。あれは全て養育費だ」

いまだに嘘を吐く近藤を殴りたい衝動に駆られましたが、それでは私が不利になってしまうのでなんとか我慢して、今の彼には殴られるよりも痛い話をすることにしました。

「美雪が身体の関係を認めた。弁護士を通して、慰謝料は請求させてもらう」

「そんなのは夫婦が破綻した後だ」

「夫婦が破綻していたかどうかなんて、他人のお前が決めるな。美雪、俺達は破綻していたと思うか?」

近藤は縋るような目で妻を見ていましたが、妻は何度も首を横に振りました。

「破綻なんてしていません。全て私が悪いの。私がこんなことをしたから責められて当然です。私が馬鹿なことをしたから叩かれて当然です」

それを聞いた近藤は妻を睨みつけ、言葉使いまで変わっていきます。

「お前達夫婦は美人局か!」

「そう思うなら訴えてみろ」

「慰謝料、慰謝料と五月蝿いが、そんな物を払わなければならないようなことはしていない。俺はキスをしただけだ。ただキスをする場所が、唇ではなかったと言うだけのことだ。そうだろ?美雪」

「言わないでー」

「美雪のオマンコに、チンポなんて突っ込んでいないよな?だから俺達の行為は不貞じゃない」

「美雪、本当か?」

妻は大きく頷きました。

「でも、さっきは」

「美雪は口でしたことを言っているんだ。毎晩毎晩、美味しそうに俺のチンポを、口いっぱいに頬張っていたからな」

「やめてー」

「旦那の前だからと言って、良い子振るなよ。身体が疼いて寂しいから抱いて欲しいと言うのを、正式に離婚するまで駄目だと俺が断ったら、強引に俺のパンツを脱がせて咥えてきたじゃないか」

「嘘です。私を押さえつけて、もう我慢できないと言うから。私がそれは出来ないと断ったら、それなら他の方法でもいいから出してくれないと、このまま最後まですると言って放してくれなかったから」

「美雪は仕方なくしていたと言うのか?それなら聞くが、俺の指で何度も何度も感じていたのは誰だ?オッパイを舐めていたら、オマンコも舐めてと言って腰を持ち上げていたのは誰だ?」

「そんな事は言っていません」

「俺の指や舌で感じていたのも嘘だと言うのか?」

そのことには反論出来ずに俯く妻を見て、怒りよりも寂しさで押し潰されそうでした。
普通このような会話を聞けば近藤に飛びかかるのでしょうが、この時の私は自分を落ち着かせる為に、妻の性器と近藤の性器が繋がらなかったことだけでも、最悪は免れたと思うようにしていました。

「痴話喧嘩は後にしてくれ。それよりも、そのような行為も立派な不貞行為だ。それに、そこまでで止められた証拠も無い。こちらにはマンションに2人で出入りしている写真もあるから、後は裁判官が判断してくれるさ」

「俺はお前達の夫婦喧嘩に利用されただけの被害者だ!絶対に慰謝料なんか払わないぞ」

近藤はそう叫びながら帰っていきましたが、払わないのではなくて払えないのでしょう。
近藤が帰って2人だけになると、性器の結合までには至らなかったことへの安心した気持ちなどは消え去ってしまい、それに近い行為までしていたことが許せません。

「裸を見せたのか?裸どころか、身体の中まで見せたのか?あいつで感じたのか?あいつにいかされたのか?」

「ごめんなさい。ごめんなさい」

泣いて謝る妻を見ていると、30年も操を守り続けてきた妻の、ここ数ヶ月での変わりようが信じられませんでした。
30年も掛かって築いてきた信頼関係を、ほんの数ヶ月で壊した妻が許せません。
気が付くと正座して謝る妻にまた手を上げてしまいましたが、そんな自分に戸惑いながらも軽く叩いたことを言い訳に、続けてまた手を振り上げている私がいます。

「殴って。もっと殴って」

「ああ、言われなくても殴ってやる」

私は軽く叩いたつもりでしたが、翌朝妻の左の頬は、少し黒くなって腫れていました。

「仕事は!」

「この顔では」

「こんな顔では、近藤には会えないか?」

私はまだ妻の心を疑っていました。
近藤の本性を見ても、裸で抱き合った身体は離れられないと疑っていました。
近藤で感じてしまった妻は、近藤の肌の温もりを忘れられないのではないかと疑っていました。
妻が近藤と顔を合わせることは辛いことです。
しかし、妻を試したくて仕方がないのです。

<続く>