大学生活も体に馴染み、俺は新しい環境にすっかり順応していた。

そんな風に言えば聞こえはいいが、環境の変化に多少の張りがあった生活も、すっかりダレてしまったと言った方が正しいかもしれない。
しかもまさに生かすも殺すも自由な夏期休暇になると、さしてバイトも入れていない俺は悠々自適な毎日を送っていた。
PCMAX
同級生から“麻美の噂”を聴いたのは、そんな時のことだ。

就職した麻美に遠慮し、俺はしばらく連絡を取っていなかった。
正直に言うと麻美の電話番号をディスプレイに表示させて、ただ眺めるなんて事が何度かあったのだが、そんな事はどうでもいい。

なんでも麻美は、就職先でかなりの才能を発揮していたらしい。
上司にも気に入られ、それなりの肩書きまで貰っているそうだ。

少しも不思議じゃない。
いかにも麻美らしい、いや麻美なら当然だろうと思った。
何故か俺が誇らしい気持ちになる。

だが重要なのは、ここからだった。

その目をかけていてくれていた女性上司が、地方で新しい店を手がける事になったらしい。
それに一緒に来いと誘われ、OKしたとの事だった。
行動派で決断の早い麻美の事だ、二つ返事でOKしたのだろう。
直接なんの連絡も来ていないことに一抹の寂しさを感じながらも、堂々と連絡する理由が出来たことに俺は喜んでもいた。

「よ~う、久しぶりじゃんか~。全然連絡くれないから、てっきり私捨てられたのかと思ってたよ~」

しょっぱなハイからテンションで電話に出た麻美は、俺が知ってる麻美以外の何者でもなかった。
全く、どう話そうかとウジウジ考えてた自分が馬鹿らしくなる。
だが麻美の本領はここからだった。
俺は次々とビックリさせられる事になる。

まず麻美の新天地がとんでもない僻地だという事、ちょっとやそっとで戻って来れる場所じゃない。
しかも夏休み明けにはすぐに引っ越すという事。
残りはもう一週間も無かった。
続いて、つい最近バイクで転んで怪我をしたという事。
そしてそれを期に、あんなに好きだったバイクを止めたという事。
休む間もなく突きつけられる、驚きの連続。

とりあえず二日後に会う事に。

「どこ行くか、なんだったらバイク出そうか?」
「実はさ、まだちょっと足が痛いんだぁ」

「マジで?ホントに大丈夫なのかよ?」
「いや大した事ないんだけどさ、ちょっと出歩くのは辛いからウチ来ない?」

なんでも高校卒業と同時に両親は田舎に帰ってしまい、今は会社で借り上げてくれているアパートに住んでいるらしい。

「おっけーおっけー」

「手土産忘れんなよなっ」
「お前ふざけんなよ?」

数ヶ月の間話していなかったとは思えない。
高校時代そのままの、麻美との会話がめちゃくちゃ楽しかった。

待ち合わせ場所は、麻美の家の最寄り駅。
そこに現われた麻美を一目見るなり、俺はかなり動揺した。
あのスポーツ刈り頭は微塵も無く、ふわっふわのショートカットになっていた。
それは顔の小さい麻美にピッタリマッチしている。
そしてなにより、あの麻美がスカート姿だったのだ。
小柄でキュートな女の子、実際すれ違う男の視線を何度か惹きつけていた。

(あぁ、麻美ってこんなに可愛いかったんだなぁ)

そうシミジミ思った。

俺の視線に気づいた麻美が、コツンと蹴りをくれる。

「なによ?私だってスカートくらい履くのよ」

チョット拗ねた様に口を尖らせる。

「あ、いやさ、予想外に似合ってたからさ」

“ドカッ!”

すかさず強烈な蹴りが入る。

「イテッ!お前足平気なのかよ?」
「あぁ・・うん、大した事ないんだって。なんか捻ったみたいになっちゃってさ、違和感あるだけ」

「単独だったの?」
「実はさ・・・、立ちゴケしちゃって・・・」

麻美はバツが悪そうに頭をかいてみせた。

「はぁ?お前が?なにやってんだよ」
「仕事帰りでボーっとしてたみたいでさ、会社から『バイクやめろ』って言われちった」

「そっか・・・」
「まぁどうせ向こうにバイク持って行くのは無理だったしさ、思い切って手放したんだ」

俺は上手く言えない寂しさのような物を感じたが、麻美自身はもっとそうだっはずだ。

沈んだ空気を蹴散らすように、麻美が声を上げる。

「で、その手に持ってる袋なによ?」
「あぁ、近所にケーキ屋が出来てさ、結構有名な店らしいのよ」

ケーキを受け取った麻美は、悪戯っぽい目をして言った。

「お?なんだよ、私に小細工使うようになったんだ?」
「お前が手土産持って来いって言ったんだろ!」

すかさず麻美も言い返してくる。

「私がそんな図々しい事、いつ言ったよっ」

「はぁ・・・」

俺は大袈裟にため息をついてみせる。

「お前っばかっ、それケーキだって、ブンブン振り回すなよっ」
「遠心力~」

麻美は、ケーキの袋を楽しそうに振り回していた。

(全く・・・。)

一緒に歩いていて思った、俺たちってずっと兄妹みたいだったな。
いや、姉弟かもしれんが・・・。

少しドキドキしながら入ったその部屋は、いかにも麻美らしい部屋だった。
色気のあるものは皆無。
機能的で必要な物が必要な所に置いてある、そんな感じ。
そして部屋に不釣合いな馬鹿でかいベッドだけが、やけに自己主張していた。
どうしても俺の目が、そちらに行ってしまう。
なにかよからぬ妄想をしそうになる自分と闘っていると、麻美がキッチンから皿を取り出して出てくる。

「そうそう、ケーキあるんだけど良かったら食べない?」
「俺が買ってきたんだろ」

「まぁまぁ、遠慮しないで」
「お前が遠慮しろっ」

正直助かったよ、麻美。

それから俺たちは、時間を忘れて喋りあった。
こんなにも喋る内容があったのかと思うほどに。
話に合わせてクルクルと動く麻美の表情、アクションを見せる腕、滑らかに動く指先。
いくら見ていても飽きなかった。

一番多く話したのは麻美の仕事の話。
仕事の話をする麻美はイキイキと輝いていて、饒舌だった。

(本当に仕事が楽しいんだな。)

俺はそんな麻美を誇らしく思い、羨ましく思い、なぜだか寂しくもあった。

実際にその仕事が、麻美を遠くへ連れ去ろうとしているわけだ。
そう思うと、俺の気持ちがますます沈んで行く。
胸と腹のあいだ辺りに押さえ込んでいた“モヤモヤ”みたいな物が、一気に膨らんだ気がした。

「お前、ホントに行っちゃうんだな」

麻美は少し間を置いてから、力強く頷いた。

「うん」

「なんか俺さ、麻美にはいつでも会えるって気がしてたんだ」

麻美は俺の目をじっと見ている。

「うん」

「また麻美とツーリング行きたいと思っててさ、行けるもんだって思ってた」
「うん」

「でももう、それは無いんだと思うと、寂しいな・・・」

俺は自分のつま先の辺りを見つめて、俯いた。
ふと、自分が泣くんじゃないかと思った。

すると不意に麻美が立ち上がった。
そして俺の隣にやって来てドサッと座った。
ピッタリと体が寄っていて、麻美に触れた部分がすごく熱く感じた。

「私、上司に誘われた時ね、その場ですぐについて行こうと思ったの」

俺は黙って聴いていた。

「友達の事、バイクの事、家族の事、何一つ頭に出てこなかった。不思議なほど、障害になるものが何も無かったんだ」

そう言うと麻美の言葉は途切れた。

でも何か真剣に考えている様子だったので、俺は黙って待った。
しばらくして麻美は小さく呟くように言った。

「でもさ、ひとつだけ、ひとつだけ頭に浮かんできたのが◯◯(俺)の事なんだ・・・」

俺にとって、これ以上ない衝撃の言葉だった。
後ろから頭を強く殴られたような感覚。

「ホントは私ね、黙って居なくなるつもりだったんだよ・・。だから◯◯から電話が来た時はビックリした」

ゆっくりと、独り言のように話す麻美。

「昨日さ、美容院いって、スカートも買ってきた」

そう言って良く似合っているスカートの裾を引っ張っる。

「めちゃくちゃ緊張したぞ」

照れくさそうに笑ってみせる麻美。

だけど麻美はまたすぐ真面目な顔に戻る。

「ツーリング行った日の夜さ、私の胸揉んだ事、覚えてる?」

俺の心臓が驚いて、変な音を立てた。
もちろん忘れる訳がない、いや忘れられる訳がない。
だが、その時の俺はパンチの連打を浴びたボクサーのような状態。
さっきからの強烈な言葉にすっかり参っていた俺は、首を縦に振るだけで精一杯。

「一緒に付いて来てくれない?って真剣な顔の上司の前でさ、何故だか私・・◯◯に胸揉まれた時の事思い出してんの」

そう言うと麻美は、自分の膝に顔を突っ伏して可笑しそうに笑った。

いつまでもそうして肩を震わせているものだから、俺は一瞬麻美が泣いているのかと思った。
次の瞬間サッと顔を上げ、俺の顔を見つめてきた。
柔らかなやさしい目。

「あの時、私の事・・抱きしめようとしてたでしょ?」
「うん」

「隣にみんなが居たしさ、私、恐くなって突き飛ばしちゃったの」

俺はあの時の、裸で胸を隠す麻美の姿を思い出していた。
麻美はコクリと喉を鳴らすと、俺の目を見たまま言った。

「でもさ、私、今なら突き飛ばさないと思うんだ・・・」

KOパンチだった。

目の前がチラチラして頭が真っ白になった。
これは、行かなきゃ駄目だよな。
俺は最後の力を振り絞るようにして、肩に腕を回す。
そしてぎこちなく麻美の体を引き寄せる。
途端に俺は麻美の匂いに包まれる。
俺の胸で、麻美が大きく息をつくのが解かった。

(なんて細くて小さいんだ。)

あの生き生きとみなぎるパワーが、この体から出てくるなんて信じられない。
麻美の手が俺の背中に回り、しっかりと掴まれた時、俺の頭の中は麻美だけになった。

麻美の裸は透き通るほどに真っ白で、俺が触れた場所だけ赤みを帯びた。
俺は麻美の体を、隅ずみまで赤くさせるので夢中になった。
最初はされるがままだった麻美も、しばらくすると俺の体を撫でてくる。
少しひんやりとした、柔らかな手で触られるのは夢のような心地だった。
ただ触れ合うっていう単純な行為が、とんでもなく気持ちの良い事だと俺は初めて知った。

財布から前日忍ばせたゴムを取り出したときの、麻美の茶化すような目が忘れられない。

「なんでそんな物が入ってるんですか?」

そんな風に笑っているようだった。

なにか全て見透かされている気がして、俺の顔はその日で一番赤くなった。
俺はそれを誤魔化すように、乱暴に麻美に覆いかぶさる。

しばらくすると俺の動きに合わせて、麻美は時折小さな声を上げるようになっていた。
俺はその声がもっと聴きたくて、必死で体を動かす。
麻美は首を反らせ小さな顔を火照らしていた、何かに耐えるように強く目を瞑っている。
小さく開いた口からは絶えず熱い息が吐き出され、時折耐えかねたように悲鳴のような小さな声が漏れる。
白い手はシーツを強く握り締め、小波の様なしわを作っていた。
そして麻美の小ぶりで張りのある胸が、弾むように上下に動く。
なんだか幻想的な姿だった。

(いつまでもこのままいたい・・・)

そう思った。

夢のような出来事なんて、いつだって一瞬で儚い。
俺はすぐに耐えられなくなり、麻美の隣に倒れこんだ。
急速に体から熱が逃げてゆく。
充実感と気怠さ、まるで正反対の波に漂いながら体を離した後も、二人そのままの姿で長いこと寝転んでいた。

気が付くと麻美の手が、俺の手をしっかりと握っている。
長い事一緒に居たが、手を握る事なんてなかったな。
このままずっと握っていれば、麻美はどこにも行かないんじゃないか?
そんな子供じみた事を考えたりした。
しかし俺は、麻美の事を良く知っている。

麻美は行動を始めたら、何かに未練を残したり後ろを振り返ったりするような奴じゃない。
全てを捨てて、全力で前に向かっていく。
今までもそうだったし、そしてきっとこれからも・・・。
そして、だからこそ俺に体を許したんじゃないか、そんな気がした。

麻美は軽く目を閉じ穏やかな顔をしていた。
呼吸に合わせてゆっくりと胸の膨らみが上下している。
俺はそれをいつまでも眺めていた。

夕方から用事があるという麻美は、俺を駅まで送ると言った。
用事があるなんて嘘だろうと、俺はすぐにわかった。
だが俺だって男だ、麻美の気持ちも察っしていたし、覚悟もできていた。
外に一歩出ると、なんらいつもと変わらない空気。
部屋の中での、ついさっきまでの出来事が嘘のようだった。

俺たちはいつもと同じように冗談を言いながら歩いていたが、駅が視界に入った時、麻美が突然腕を掴みしなだれかかって来た。
最後の本当に短い時間を、俺達は無言で歩いた。
駅の近さを呪うなんて、おかしな話だ。

麻美の腕がゆっくり離れていった時、俺は深い喪失感みたいなものを感じた。
麻美は俺の腕を放すと、スキップするみたいにひょいっひょいっと後ろに下がる。
そして片手を上げるとニコッと笑って言った。

「じゃ~な」

俺は胸がひしゃげた。

その“じゃ~な”の意味するところを悟ったからだ。
それは「またな」とかいうニュアンスの物では無かった。

“本当のさようなら”そういった響きだった。

“お互い頑張ろうな”そんな風にも聴こえた。

すぐに気を取り直した俺も、麻美の目をしっかり見つめて想いをぶつけてやった。

「麻美、じゃ~な」

麻美も一瞬ハッとした顔をしたが、すぐに顔をクシャっとさせて笑った。

その表情は、笑っているようにも泣いているようにも見えた。
俺はクルリと背を向け歩き出すと、もう二度と後ろは振り返らなかった。
振り返ったりしたら麻美に笑われる、きっとがっかりさせる、そんな風に思ったんだ。
麻美の視線を背中に感じながら、俺は構内へと入っていった。
夏が終わろうとし始めている、そんな頃の話だ。

休みが明け、普段の日常が始まれば時間なんてあっという間だ。
時の流れなんてエスカレータみたいなもんで、いくら俺が立ち止まっていようとグングン進んでいってしまう。
麻美の事も、今ではなんだか昔の出来事に感じる。

その年の暮れの頃だったか、俺は一度だけ麻美の携帯に電話をしてみたんだが、その番号はもう使われていなかった。

(あぁ、あいつ頑張ってるんだな。)

そう思って俺はひとりでニヤッと笑ったものだ。
清々しい気持ちだった。

麻美もたまに、俺の事を思い出したりしてくれるのだろうか。
そうであってくれれば嬉しいのだが、あいつは意外と冷たい奴だからな。

俺には今、付き合っている子がいる。
麻美とは全てにおいて正反対のような子だ。
のんびり屋でおっとりしていて、部屋のヌイグルミに名前をつけるような子だ。
俺の携帯の通話履歴やメールは、今や八割方この子の名前で占領されている。

だけど俺の携帯には、今でも麻美の番号が残っている。
もう使われてもいない番号だが、この先も消す事はないだろう。
女々しいとか言うなよ、これくらいはいいだろ?
この番号は俺にとって特別、お守りみたいなものなんだから。

これで俺と麻美の話は完全に終わりなんだが、最近ひとつだけ思っている事があるんだ。

それは、麻美がバイクで足を怪我した事。
あれは嘘だったんじゃないのかと、最近思ってるんだ。
小さな体でも、自在にバイクを操っていた麻美。
いくら疲れていたって、あの麻美が立ちゴケなんてどうしたって考えられない。
それにあの日、麻美は外傷どころか特に足をかばってる様子も無かった。
会社にバイクをやめろと言われたのは本当かもしれない。
向こうに持っていくのも無理だったのだろう。

でも立ちゴケして、足を怪我したなんていうのは嘘だ。

それはあの日、俺を部屋に誘うための嘘だったんじゃないか・・・そんな風に思うんだがどうだろう?
これはあまりにも都合の良い考えだろうか?

もしもいつか麻美と再会する事があったら、この事を聞いてやろうと思ってる。
そうしたらきっと麻美は、俺の大好きだった悪戯っぽい目を見せて笑い、蹴りを入れてくる。

そんな風に思うんだ。

―完―